役行者倚像

  • 重要文化財
  • 鎌倉時代 14世紀
  • 木造
  • 彩色
  • 寄木造り
  • 像高146.6cm

御歳19才の等身大のお姿と伝わります。

像の根幹部を堅材の一木から彫出し、面部を矧いで水晶の玉眼を嵌入し、着衣には様々な彩色文様が施されています。
長頭巾(ときん)を着け、右手に錫杖、左手に経巻を持ち、素足に下駄をはき岩に腰かけたお姿。
口を開き微笑んでいるような柔和な表情で、玉眼の両眼を見開いておられます。
髭がなく、表情には生気が漲り、若々しくしっかりとした骨格や筋肉が表された、若き日のお姿です。

本来、前鬼・後鬼が左右に従っておりましたが、明治の神仏分離・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の法難の折、行方知れずとなり今日に至ります。

合掌

ご宝号
南無神変大菩薩(役行者にすべておまかせし帰依いたします)
ご真言
オンギャクギャクエンノウバソクアランキャソワカ

役行者神変大菩薩

今からおよそ1400年前、1つの魂が大和の国の高加茂(たかかも)という家を選び舞い降りてきました。
名は役小角(えんのおづぬ)、時は舒明天皇6年(634)正月元旦、大和國上葛郡茅原郷(現在の奈良県御所市茅原)(『続日本紀』)でご生誕されました。
父は高加茂朝臣(たかかものあそん)で、加茂役君(かものえだち)または大角(おおづぬ)と呼ばれ、母は渡都岐比売(とときひめ)又は白専女(しらとうめ)・刀自女(とらめ)と呼ばれました。

日本は大化の改新(645)の前夜、社会も人心も混迷の嵐の中です。
役小角は、幼名を金杵丸(こんしょまる・母がある夜、天空に浮かぶ金色に輝く金剛杵が静かに降りてきて口からはいる不思議な夢をみたという)と名乗り、幼い頃より叔父 願行(がんぎょう)上人より仏法を学ばれたといいます。

17才で葛城山に入り岩窟において孔雀明王の秘法を受け、生駒山では人々に危害を加え苦しめていた鬼のような夫婦 前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)を諭し改心させ弟子としました。
そして熊野本宮、音無川より大峰山に入山、金峰山(山上ヶ岳・標高1721m)山頂において世界の平和とすべての魂の幸福を願い一千日の間修行を積まれました。そして衆生済度のご本尊金剛蔵王大権現(こんごうざおうだいごんげん)をご感得(祈り出)されたのです。
その後、吉野山へ下られ、金剛蔵王大権現を自ら桜の木で彫られ祀らました。まさにそのとき大峰山が道場となり、修験の道が始まったのです。役行者(えんのぎょうじゃ)の誕生です。

斉明天皇4年(658)25才の時には箕面の龍穴で龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)より密教の奥義を受けられました。
役行者は生きとし生けるもののため日本中を巡り、その生涯を実践を通し衆生済度の菩薩行(他を利する奉仕の行)に捧げられたのです。

大宝元年(701)6月7日、68才の時、役行者は老母を連れ 箕面の天上ヶ岳へ登り、母を鉄鉢に乗せ五色の雲に乗って昇天されました。

江戸時代 寛政11年(1799)正月25日、役行者一千年御遠忌に際し、その威徳を称え、光格天皇より「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の諡号(しごう)が授けられました。

役行者は、自然に回帰し“未知”なる“道”を開き、世界が真実の光に、すべての人びとの心が安らぎに“満ち”ることを願い菩薩という奉仕を道とされたといえましょう。