大峰山

ひらけごま

季節, 行事, 大峰山

5月3日 午前3時
大峰山の戸開け式が行われました。
まだまだ暗闇と寒さの残る静寂な聖地での戸開け式の後の、朝日に染まる空の美しさと澄んだ空気は、住職から送られてきた写真からも伝わってきました。

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山上
9月23日の戸閉め式まで、5か月近く、大峰山は修行者を受け入れる季節がきました。
7月には奥駆修行もあり、真夜中から早朝にかけて、吉野山中に修行者の法螺貝の音、錫杖の音、リュックに付けられた鈴音、そしてお経を唱える声が鳴り響きます。
(午前2時半に吉野を出発し大峯山をめがけるため)

のださん

きたさん
大峰山上の櫻本坊 参籠所でも、縁の下の力持ちの方達がいて下さっています。
修行者の皆さんを迎えるため、到着された方の疲れを癒せるように、出発する方の道中の安全を祈りながら、山上 櫻本坊の守をして下さっています。
また、戸開け式をめがけて来られる方のためにも、4月末から山上に登り、準備をして下さっていました。
そして、行者さんの中にも、ご奉仕で、その準備のために同じく早くから山上に行って下さり、参籠所の工事や掃除や、さまざまなサポートをして下さっていました。

火もり
サポート
台所手伝い

どのような行事・法要・神事でもそうですが、支えて下さる方々がいて下さるから、全ては実現でき、祈りの「現場」を守ることができること。
櫻本坊1つをとってもそうです、例えば僧侶1人で出来ることは限られています。そこに携わる人間だけで出来ることはほんの僅かです。
多くは、やはり支えて下さる方達がいて、祈る想いを分かち合える方達が来て下さるから、共に手を合わせれる空間があるから。
神仏と、皆一人一人の祈りと想いが1つになってこそ、それこそ「ひらけごま」は本当に道を示してくれる。

こういった方々の存在を通して気づかされ、本当に毎回同じ文章の繰り返しになりますが(何度でも書いていきますが^^)感謝の気持ちで溢れてきます。

山
山に入ることは、自然と一体になり、自分と向き合う貴重な時間です。

自分と向き合うと、自然と相手とも向き合い、人を想う心に気づかされるのではないでしょうか。
一歩一歩が、祈りの道であり、その一歩一歩を踏みしめる道も、また生命の道でもあります。
地球・自然は循環し続け、その調和の中に生かされている私たち。
全ての命の存在の平和や愛や幸せを願う道。

数ある聖地と呼ばれる場所に流れる Circle of Lifeに教えられる事はいっぱいです。

私自身、去年の10月、十津川村から、釈迦ヶ岳~楊枝宿の山道を歩きました。
私にとって、人生2度目の本格的な山でした。
(1回目は弥山でした)

釈迦ヶ岳

山に入って、ひたすら歩いたその12時間は、人生を歩む自分の立ち位置と重なり、人生を教えられたようでした。

転ばないように下ばっかみて歩いてると、道の全体は見えません。
でも、そこには動物の足跡があって、植物の健気な姿に勇気づけられます。

周りの景色に気をとられて歩いてると、自分の足もとを忘れがちになります。
でも、雄大な風景に抱かれ見守られている心地よさに、ちっぽけな悩みや不安は消えていきます。

水たまりがあったり、分かれ道があったり。
避けるように歩いても、違うところでは避けられなかったり、右の道を選んだけど、結局は左の道を選んでいても、最終的には同じ場所にでたり。

こんな山道に、それでも先人達が歩いてきた道筋は、失われずに続いているのです。
その道筋だけ、植物は咲かずに、まるで人間のために、迷わないように、道を示してくれているのです。
そんな山の、私たちに向けられる優しさを感じ、その道筋を辿れる喜びを感じました。

例えばご先祖様や、歴史を切り開いてきた偉人達が歩いた足跡が、今を生きる私たちの前を向いて生きるヒントや希望になったり。
いや、ひかれたレールの上を歩くのは嫌だ、道なき道を行くんだ、自分で道を切り開いていくんだ、その熱意や勇気や原動力も、隣で同じように道を繋げ歩く仲間やライバルの存在のおかげだったり。

道筋
道筋2
山を歩くことは、まるで人生そのもののようでした。

でも(季節が季節でしたので)他に誰も歩いていなくて、この地球上に自分たちだけしかいないように感じて、風の音が話声のように聞こえてきたり。
霧がでてきて周りが見えなくなって、日が沈む直前の焦りや、暗闇の中を延々と歩く恐怖。
野生の鹿の群れに遭遇して、ハラハラしながら横切ったとき、鹿達は私たちが見えなくなるまで、じっとこちらを見つめていたこと。

夕暮れ

霧山

神仏が宿る山は、偉大であり、そして孤独でした。
想念の世界って、こんな場所なのかな?
そう思わせられた経験でした。

自然の優しさと、自然の怖さに気づかされた経験でした。

山を人生のように例える意味が、少し分かった気がしました。
入口は違っても、その登る道が別々でも、登るスピードや登り方が違っても、目指す山頂は同じ。
試練の中にも、喜びの感動の中にも、全ての中に求める答えや真実があって。

そこには、必ず自分たちを見守ってくれている存在があって。

それが人生っていうものじゃないのかな。

 

大峰山が今年も開いて、そんな去年の事を思い出してた今日。

修験は、仏教・儒教・密教・道教・景教・陰陽道・神道・・・などが融合した「道」です。
山に入ること、滝を浴びること、護摩を焚くこと・・
自然に全てを委ね、まず祈ることから始まる「道」が、そこにはあります。

マザーテレサの言葉のように、世界平和のために出来ることは、まずは家に帰り家族を愛することから。
自分を愛すること、それだけ聞くと・言うと、自分本位で勝手な人間だ、と聞き取られてしまいがちですが、人を幸せにするには、自分が幸せでないと、自分が満たされていないと、人の心を幸せで笑顔で満たすことはできません。
まずは自分という存在を愛し、そして家族を愛す。家族の幸せが、それが自分の幸せだから。

その先に、自分や家族の幸せだけでなく、人の幸せを願い、人の幸せに繋げていくのが、その「道」の1つの目的ではないでしょうか。
人の幸せが、それが自分の幸せだから。

お釈迦様の歩いた跡には、花が咲いたといわれます。
今、この瞬間を生きる私たちの歩く道が、沢山の幸せで満ちていますように。
今、この瞬間を生きる私たちの歩く道が、誰かのための道しるべとなっていきますように。

大峰の山々を歩かれる方達の、全ての命の幸せと、道中安全をお祈りしています。

by anju