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行事, 修行

得度式~当たり前を極める~

5月6日・7日、得度式がありました。

当山では、年に2回(春と秋頃)行われており、毎回、様々な想いや誓いを胸に、様々な方々が得度を受けに来られます。
今年は、ドイツ人女性が、得度を受けられ、祈る想いにボーダーは存在しないことを、更に実感する日々です^^

得度、と辞書でひくと、よく目にするのは「出家するための儀式」と書かれています。
が、現代では「僧侶になるための儀式」の意味だけでなく、仏の心を敬い、心身の浄化を志し、自己認知を深め、人へ社会への自分らしい貢献の仕方を見出す(あくまでも私の表現の仕方です)、このように、1つの門を開く、という形で、どなたでも、得度を受けて頂けます。

ただ、その門を自らの手で開けて、その先に続く道を、「信」という軸を持って深めていきたい、という気持ちがあるかどうかの面接を、必ず受けて頂きます。

「受けろ、と言われたから来ました」
「~をするのに必要だから、しょうがなく受けに来ました」

といった気持ちで望まれる方には、申し訳ありませんが、受けて頂けません。
人に言われて来た、ではなく、自分の意志で来たかどうか。
嫌々来た、ではなく、心から望んで来たかどうか。

その、心の持ち方を特に意識しています。

また、得度を受けることはゴールではなく、始まりにすぎません。

「得度を受けたから全てが修了で、何をしてもいい」
「得度を受けたから、私は人と違って偉い」
「得度っていう、また新しい資格を取った」

そのような事を言われる方がいらっしゃる、と、よくお聞きすることがあるのですが、そういった感覚で得度を考えている人がいることに、少し悲しく感じます。
いろんな意味で、「信仰」を見直す時期がきているのではないのかな・・と感じます。

本当の意味で、この門を開けて歩んでおられる姿は、ありのままの自分を受け入れ、平等で、謙虚で、人を理解し愛することに努力されています。

以前の記事でも触れたことですが、修行とはいったい何のためにするものなのか。
道場に来たときだけ、人が大勢いて見られているときだけ、見えてるところだけ、そこでだけ。形だけ。恰好だけ。口だけ。
そしてその心持ちが、人への態度や、物の扱い方や、例えば掃除の仕方一つとっても、そのまま形になって表れてきます。

日常を丁寧に生きることこそ、毎日の生活を大切に生きることこそ、何よりも大切な修行ではないでしょうか?

自分のありのままを受け入れる勇気を持つこと。
目の前にいる家族を愛し、仲間や友人を尊重し、人それぞれの違いを認めること。
自分と意見や価値観が違う人を否定し排除するのではなく、自分より弱者と決めつけて人を馬鹿にするのではなく、生きている間に、どれだけ自己認知を深めれ、人を理解し愛せるか。
見返りを求めない、社会・人への貢献ができるか。
人の幸せを素直に喜べ、それが自分の幸せとして感じれるか。

滝を浴びる、護摩をたく、お経を唱える、山に入る、荒行だけが、決して修行ではありません。

人への感謝の気持ちや、自然界で生かされていることへの感謝。
日常生活の中の当たり前ができなくて、その当たり前をないがしろにしてしまっていては、例えば荒行だけしても、根本的なところでの軸が立たないように思います。

スポーツでも学業でも、基礎が一番大事!基本ができなくては、何もできない!
まさにその通りやな~と私も常日頃、できていないことだらけで、反省ばかりですが、この考え方をいつも頭に置き、初心に戻り、まずは普段の生活を見直すよう心掛けています。

得度講習お昼

得度受戒会を迎える前に、心得や作法を含む勉強会があります。

そして、座学だけでなく、実際に体を動かしての作務の時間もあります。

作務は、何も特別なことをするのではなく、境内の草ひきや、お堂周りの掃除、トイレ・お風呂掃除など、普段家でする基本的な作務と何も変わりません。
掃除は、自分の身の回りだけでなくて、例えばそこに次訪れる人の気持ちを心地よくすることができる、これも1つの人への貢献だと思います。


たかが掃除、されど掃除。

掃除するときの気持ちは、そのまま掃除の仕方や、仕上がりに形として出てきますよね。
道場での作務ってもっと特別なことをするのかと思ってた!と感じるかもしれませんが、大切なのは、日常生活に根付く、最も根本的で「当たり前」なことに、今一度気づいてもらうこと。
(よくよく考えると、道場での日々というのは、何も特別なことはなく、同じように、日常の当たり前を生きています)

その作業をしているときに、どんな感情が心の中にあって、どのような気持ちでしていて、何を思い、誰を思い、どうその時間を過ごしているのかを、自身で気づき知ること。
そして、得度を終えて、家に帰ったとき、どうその体感を生かしていけるか、生活の中に根付かさせていけるか。
「当たり前」を「当たり前」にできていけるか。

それが大切だと考えています。
このような毎日の「当たり前」を「当たり前」にする誰もが、既に修行者!ではないでしょうか^^

また、同じ時間を共に過ごす人達とのハーモニーを学ぶこと。

もちろん、私たちは人間だから。
感情があるから。
誰だって、苦手だと感じる人がいて当たり前だし、体調や気分によっても人への接し方に変化が出てしまうのも当たり前。

だって、人間だから。
完璧な人なんて存在しないから。

そんな一瞬一瞬を流れる感情の波や、氣の流れの中で、その場で共に過ごす人たちと、いかに調和を保てるよう心を向けれるか。

例えば、一人でもなんとなく機嫌が悪かったり、なんとなくピリピリしてる感じがあったり、それが、知らずのうちに、目に見える形・目に見えない形で、態度や言葉遣いや目つきや波動として出ると、それだけで場の調和は乱れてしまいます。

その感情を持つことは、全然悪いことではなくて、むしろ当たり前なことですが、可能な限りで、調和を保てるように、自身に、そして相手に心を向けれると、きっと自分たちを取り囲む周りの環境は平和で幸せで笑顔に包まれ、それが世界平和に繋がっていくと思います。

奥駆修行でもそうですが、30人前後で5日間、山岳修行を共にすることは、自然の中に息づく生命や神仏を感じること、自身の内面と対話すること、祈ること、そして人とのハーモニーを学ぶ場でもあります。
歩くスピードや、歩幅の違い、年齢も職業も生きてきたバックグラウンドも、何もかも違う人たちが集まって、共に歩くのだから、やはり最初は、その全体の歩調や歩幅に慣れるまで大変ではないのかな?と思います。
皆がそれぞれ、自分のことばかり考えていたら、きっと全体のハーモニーは保てなくなるでしょう。
怪我をしたり、文句や愚痴や人のせい、という負の感情が心を支配してしまうでしょう。
でも、相手のことを想いあいながら、支えあいながら、共に進む道には、そこには調和という、その道を示してくれる光となるのではないでしょうか。

そして、その体感こそが、人生を、社会を生きていくなかで、人と共に生きることの意味を示してくれるのではないのかな、と個人的にはそう考えています^^

全ては、相手があってこそ。
そして、生命があってこそ。

一人で生きている人はいなくて・・
「他人事」の命は存在しなくて・・
全ては、人は、みんな繋がっているから。

得度作法

そのような「当たり前」を見直し、ハーモニーを意識し、何かしら、この2日間が、皆さんにとっての「きっかけ」や「気づき」となったことを、また、なっていくことを、願ってやみません。

自ら開かれた門を自分らしく歩んでいかれるみなさんへ。
得度式を終え、あらためてお伝えしたい言葉は、

「お誕生日、おめでとうございます!」
です!

戒名という新たな名前に、自分らしく、魂を吹き込んでいかれますよう、自分らしく、生命を生きていかれますよう、心からお祈り申し上げます。

「産まれてきてくれて、ありがとう」
命の誕生の瞬間を喜ぶのは、命の全うの瞬間を悲しむのは、親や家族だけではなくて。
そこには、必ず、繋がっているたくさんの人たちの命や人生や想いがあって。

与えられた命を、与えられた所で、与えられた形で、自分らしく生きること。
それも、一つの愛の形であり、そして私たちにできる、最大の貢献であり恩返しであるのではないかな・・^^

毎日が、誰かの誕生日。
5月7日 得度式、皆さんの誕生日を、共にお祝いできたこと、幸せに思います。

全ての繋がるご縁に感謝です。
ありがとうございます。

by anju

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