弘法大師像
- 江戸時代 17世紀
- 木造
- 彩色
- 寄木造り
- 像高82cm
彩色寄木作り、穏やかなご表情の丸みを基調とした安定感のあるお姿です。
弘法大師・空海和尚は、唐に留学される前の若き頃、大学での勉学に飽き足らず山林での修行に入られたと伝わります。
平安時代のお大師さまの漢詩文集「性霊集」(しょうりょうしゅう)によれば、「空海は少年の日、吉野山から一日南行し、さらに西に二日歩いて高野山に至った」という内容の記述があるように、吉野山から大峰山を経て、高野の地に入られたことがうかがわれます。
その後、お大師さまの十大弟子の一人、実弟の真雅上人の弟子で、清廉潔白・豪胆な人柄として知られた聖宝理源大師もまた大峰山で山岳修行に入られました。そして櫻本坊を起点に参詣道の整備や道場の造立などで大峰山の復興・発展に尽力され、大峰山中興の祖と称されたのです。
そのご縁で当山に御影堂(みえいどう)が建立され、弘法大師像が祀られました。
江戸時代に入り、徳川家康公とのご縁により、当山の御影堂は徳川家の菩提堂ともなりました。
徳川家菩提堂
時は移り戦国の世1594年、太閤秀吉公が諸大名・家臣を引き連れ、総勢5000人に及ぶ大花見を吉野山で挙行された折、徳川 家康公が櫻本坊にご滞在になりました。
そして徳川の世、家康公の薨去(こうきょ・貴人が死去すること)の後、将軍家は日光東照宮を建立、日本中の縁のある寺社仏閣にも家康公を弔い供養するよう命じました。
それ以来、当山の大師堂も徳川家の菩提堂となり、東照大権現を始めとして歴代将軍や政所方、有縁の方々のお位牌が祭られたのです。
爾来、先祖供養のお堂として今日に至ります。
合掌
- ご宝号
- 南無大師遍照金剛(弘法大師にすべておまかせし帰依いたします)