拝観停止のお知らせ
いつも、あたたかい御心を向けて頂きまして、心よりありがとうございます。
下記日程にて、終日、一部お堂の拝観を停止とさせて頂きます。
(指定のお堂以外の内拝観、外からのご参拝は、通常通りして頂けます。)
💠3月11日(火)・12日(水)・13日(木)
修行のため、本堂の拝観ができません。
💠3月15日(土)
上映会のため、大講堂の拝観ができません。
何卒ご理解ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。
祭礼・法要・日々の勤行のように、腰を据えて、神仏の御前で時空間を共にする時だけでなく、何気なくふとお堂の畳に座ったり、鳥居の前で立ち止まったりする時が日常で多々あります。
神仏像やお社を目の前にすると、神仏と「向き合っている」ものだ、と今まで思っていました。
もちろん物理的には「向き合っている」「対面」しているのですが、もしかしたら、見つめ合っているのではなく、心の眼は同じ方向を向いて下さっているのでは、とも思うようになりました。
向き合うことは、時に「対立」が生じることもあります。
人と人が寄り添う場面でも、真正面より、どちらかというと、斜めや横で隣で…そっと居てくれています。
そして同じ方向を向いて、自分が見ている世界を見る努力をしてくれ、一緒に道を探してくれる存在。
神仏を鏡と思えば、向き合うべき存在は、いつも自分自身。
自分が自分を最も理解できず、愛しにくい存在に感じてしまうのは、向き合う前から対立してしまっているからかもしれません。
それを、私たち人間に伝え、そして同じ目線で、同じ肩の高さで、同じ方向を向いて歩み、自分をまずは愛する術を教え、寄り添って下さっている、神仏の御心。
同じように、私たち人が人に寄り添う時、寄り添い支え合う時、物理的にも精神的にも、心がけたい姿勢の数々を、今日も沢山学ばせて頂きました。
……
昨日の雨により清められた境内の水滴に、朝日の光がキラキラと反射する今朝✨
吉野弁財天社にて、例祭を斎行させて頂きました。
当山 境内のほぼ中心に、あでやかに鎮まります、吉野弁財天社。
白蛇を従えた 水を司る美しい女神であり、芸能・弁(コミュニケーション・言霊) ・財(経済・商売・人脈・縁結び)の巡りを良きものとし、「宇賀神」とも唱えられます。
吉野山でも、10年に1度あるかないかの寒波真っ最中であった、先だっての3連休。
護摩法要・写経写仏・書禅会・法螺貝講習会・伝授会など…寺内はピリッとしつつも、同時にほっこりあたたかい時間が流れておりました。
毎日、同じ日は1日もなく、毎日、新しい方々と出会い、その瞬間瞬間に生まれる、その場の雰囲気や会話に、たくさんの気づきと学びを頂きます。
そして「慈悲」について、生涯を通して、私たち人間は考え続けなければいけない教えであると、実感します。
慈悲は、勇気でもあります。与える勇気。
与えることは、計り知れない覚悟が伴います。
自分の心を開き、自身の弱さを見せるからです。
「与える」は、言葉の捉え方によっては、傲慢に聞こえるかもしれません。
だからこそ、与える時の気持ちの持ち方が、その人の心の世界を映し出す鏡となります。
それはプランターに植物を植える行為に似ています。
プランターや飾り、道具、見栄えや形により一層凝るのか。
土や種、挿し木を買うお店や店員さんとのご縁、花言葉など、プロセスや中身をより大事にするのか。
目の前の存在に、なにをどう与え、気持ちを向け、言葉をかけ、成長や失うことの喜びや悲しみを共にするのか。
何より、与えているつもりが、こちらの方が、より大きな喜びや慈しみを与えられているのか…そこに気づけるか否か。
形か本質かを問う時、どちらもTPOで大切ですが、なるべく迎えたくない日は、形しか見えず、中身に気づかなくなる時です。
自分が周りに与えている「影響」「発言」「行動」に、どれだけの覚悟が伴っているかを、考える。
同時に、自分に向けられる慈悲には、どれほどの勇気が伴っているかを、考える。
人は皆、自分の人生を生きることに必死で、心を誰かに向けることの労力を痛感しているなかで、それでも思われていることの有難さに、気づく。感謝しかないと、気づく。
“Don’t expect to get what you give“
与え与えられることの、究極の謙虚さを見失わないように。
写真は、伝授会の折の、本堂 勤行の様子✨