吉野山でも、10年に1度あるかないかの寒波真っ最中であった、先だっての3連休。
護摩法要・写経写仏・書禅会・法螺貝講習会・伝授会など…寺内はピリッとしつつも、同時にほっこりあたたかい時間が流れておりました。
毎日、同じ日は1日もなく、毎日、新しい方々と出会い、その瞬間瞬間に生まれる、その場の雰囲気や会話に、たくさんの気づきと学びを頂きます。
そして「慈悲」について、生涯を通して、私たち人間は考え続けなければいけない教えであると、実感します。
慈悲は、勇気でもあります。与える勇気。
与えることは、計り知れない覚悟が伴います。
自分の心を開き、自身の弱さを見せるからです。
「与える」は、言葉の捉え方によっては、傲慢に聞こえるかもしれません。
だからこそ、与える時の気持ちの持ち方が、その人の心の世界を映し出す鏡となります。
それはプランターに植物を植える行為に似ています。
プランターや飾り、道具、見栄えや形により一層凝るのか。
土や種、挿し木を買うお店や店員さんとのご縁、花言葉など、プロセスや中身をより大事にするのか。
目の前の存在に、なにをどう与え、気持ちを向け、言葉をかけ、成長や失うことの喜びや悲しみを共にするのか。
何より、与えているつもりが、こちらの方が、より大きな喜びや慈しみを与えられているのか…そこに気づけるか否か。
形か本質かを問う時、どちらもTPOで大切ですが、なるべく迎えたくない日は、形しか見えず、中身に気づかなくなる時です。
自分が周りに与えている「影響」「発言」「行動」に、どれだけの覚悟が伴っているかを、考える。
同時に、自分に向けられる慈悲には、どれほどの勇気が伴っているかを、考える。
人は皆、自分の人生を生きることに必死で、心を誰かに向けることの労力を痛感しているなかで、それでも思われていることの有難さに、気づく。感謝しかないと、気づく。
“Don’t expect to get what you give“
与え与えられることの、究極の謙虚さを見失わないように。
写真は、伝授会の折の、本堂 勤行の様子✨