祭礼・法要・日々の勤行のように、腰を据えて、神仏の御前で時空間を共にする時だけでなく、何気なくふとお堂の畳に座ったり、鳥居の前で立ち止まったりする時が日常で多々あります。
神仏像やお社を目の前にすると、神仏と「向き合っている」ものだ、と今まで思っていました。
もちろん物理的には「向き合っている」「対面」しているのですが、もしかしたら、見つめ合っているのではなく、心の眼は同じ方向を向いて下さっているのでは、とも思うようになりました。
向き合うことは、時に「対立」が生じることもあります。
人と人が寄り添う場面でも、真正面より、どちらかというと、斜めや横で隣で…そっと居てくれています。
そして同じ方向を向いて、自分が見ている世界を見る努力をしてくれ、一緒に道を探してくれる存在。
神仏を鏡と思えば、向き合うべき存在は、いつも自分自身。
自分が自分を最も理解できず、愛しにくい存在に感じてしまうのは、向き合う前から対立してしまっているからかもしれません。
それを、私たち人間に伝え、そして同じ目線で、同じ肩の高さで、同じ方向を向いて歩み、自分をまずは愛する術を教え、寄り添って下さっている、神仏の御心。
同じように、私たち人が人に寄り添う時、寄り添い支え合う時、物理的にも精神的にも、心がけたい姿勢の数々を、今日も沢山学ばせて頂きました。
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昨日の雨により清められた境内の水滴に、朝日の光がキラキラと反射する今朝✨
吉野弁財天社にて、例祭を斎行させて頂きました。
当山 境内のほぼ中心に、あでやかに鎮まります、吉野弁財天社。
白蛇を従えた 水を司る美しい女神であり、芸能・弁(コミュニケーション・言霊) ・財(経済・商売・人脈・縁結び)の巡りを良きものとし、「宇賀神」とも唱えられます。