阿 理 我 等
「山の中に入ると、毎回最後は、ありがとう、の気持ちと言葉に尽きる。里でもいつも、この想いを持ち続けたい。」
住職が常日頃からよく話してくれることです。
また同じく、副住職も山に入ったさい、”阿理我等(ありがとう)“という当て字が、頭に浮かんだそうです。
阿(本不生)の理、つまり真理の境地・視点において、「我」を含めての、ありとあらゆる物事は、平等である。
私たちは、ついつい「一人でできた、やれた、成し遂げた」と勘違いすることが日頃から沢山あります。
でも真実は、一人で産まれ生き死ぬことすら、私たちには絶対に不可能なこと。
全てが繋がっていて、「生きている」のではなく、人・もの・大自然に常に「生かされている」のが、私たち。
「わたし」というかぎかっこは、自分がつけている檻であり、固定概念にすぎません。
そこを手放せたら、手を伸ばせば、全てと手を取り合える。
一瞬一瞬にして、自然が示し表現している… 大自然が無言で説いている説法、それが「ありがとう」の極意ではないでしょうか。
でもまずは…そこに気づくかどうか。
気づけば必然的に湧き出る、「ありがとう」。
その気持ちと言動の実践こそ、本当の意味での修行だと、里の行の中で常に感じることです。

写真は、大峰山のキノコ🍄🟫
「今日まで、生きていてよかった」
「どのような日であっても、生き続けよう」
寄り添い支え合うように生える姿に、自分を生かし、大切に想ってくれる人たちの存在へ…尽きぬ感謝が湧き出る瞬間。