GAGA | ブログ@櫻本坊

やまと ことのは つづり

「優しさ」は真の強さ

「優しさ」は真の強さ

“Having a soft heart in a cruel world is courage, not weakness.”

さまざまな修行や訓練、啓発が世の中には溢れていますが、その中でも「自分の心を強くしたい」という想いを、目標とされる方が多いかと思われます。

その強さを「不動心」と呼ぶこともあれば、「許し」と捉えることもあり、誰かを打ちのめすための力ではなく、己の弱さや限界を越えるための力として、私たち人類は「強さとは?」を永遠の課題としています。

祈りの現場で日々感じることは、人間として産まれ生きている限り、「何も感じない」強さを求めるために修行をしてしまうと、本来の目的とズレてしまうということ。

生きていると、色々なことと日々直面します。
それが日常の何気ないこと、もしくは生死に関わること、出来事の大小はあったとしても、その時、何をどう感じるかの先に必ずある、どう捉え動いていくか…が重要ではないでしょうか。

悲しみ 苦しみ 辛さ 嫉妬 無力感 悔しさ 矛盾に対する怒り…それ以上に満ちる喜び 嬉しさ 暖かさ 感動 愛おしさ 思いやり お互い様という許し。

感じることに素直であり、その感情とどう向き合い、他者へ恩返ししていけるだろうか。

他者の痛みを知り、その想いに寄り添う優しさや言霊は、何も感じない人間の“強さ”からは発信されません。

日本精神のひとつである「おもてなし」文化も、優しさという強さだと思います。

相手の全てを受け入れて、もてなす。
もてなされる側も、その気持ちを受け入れて、次は他者へペイフォワードを実践していく。

全ての感情を「感じること」、全ての人・物事を「受け入れること」は、難しい。難しいからこそ、それを受け取り…必要であれば手放す勇気が、強さとなります。

そして、正直者と真面目な者が損をする…そう言われる社会で、それでも優しさの心を向け続けることは、弱さではなく、真の強さ…と信じてやみません。
Anju

自分軸とは

自分軸とは

「自身の心が穏やかで調和であれば、渋谷のスクランブル交差点を歩きながらでも、瞑想はできる。場所や環境じゃないんだよ。全ては心しだい。」

2012年に来山くださった、インドのスワミー・ヨーガスワルーバーナンダ師の言葉が今も強烈に残っています。

禅・メディテーション・瞑想、様々な呼び方 方法 形がありますが、目的は共通しています。

自身の心の中を「内観(ないかん)」することに、全て繋がります。

明日ではなく「今」できる「今」しかない「今」を生きることに集中し、自分の生命を感じるための内観、それが瞑想。

瞑想の印象として「何も考えない」「何もしない」、ただ黙って静かにしていると「何か気づかせて貰える」…
受け身な行為と捉えられがちですが、実際は、五感を澄ますからこそ湧き出る本当の想い・感情・気持ち・思考があります。

その湧き出てくるものに、自発的に気づいていくことに、意味があります。そして、自身の人生で何を大切にし、誰を大切に想い、自分らしい生き方とは何か、その気づきを肯定的に捉えていきます

瞑想は、一般的に坐って行う形が知られていますが、立ちながら行う瞑想・お経や真言を唱えながら行う瞑想・歩きながら行う瞑想・光や音 香りを用いて行う瞑想、もっと身近でいうと、生活そのもの(掃除・料理・食事・挨拶・会話・仕事・学業)に至るまでがすべて瞑想です

自然と共生する私たち人間は、本来どう在るべきか、に気づくことで、社会・人間関係・人生において、人としていかに自他に思いやりと感謝を持って生きていけるか…日常生活へ活かしていく「心構え」へと結ぶ「修行」の一環。

櫻本坊では「止観瞑想」を体験して頂ける日を定期的に設けています。吉野山の豊かで厳しさののこる自然に身を置き、「今ある」時間に気付く。

今日という日を肯定的に捉えていけるように、日常のかけがえのない幸せに結ばれていくように…そっとご参拝の方の背中を押せる…そのような場でありたいと、日々願っております。

お寺で癒(い)よう秋期スケジュール↓
https://sakuramotobou.or.jp/event/2020/healing-in-temple2020fall.html

Anju

金毘羅大権現 祭礼

金毘羅大権現 祭礼

毎年10月10日、当山境内 天武天皇 夢見の桜の側に御坐す、金毘羅大権現の祭礼が地域の皆さまと共に斎行されます。
今年は、役員代表者のみで斎行させて頂きました。
吉野山の氏神様である金峯神社の神様を守る、「運行/運航」の神仏であられる金毘羅大権現

秋は日本中で、自然の恵みに感謝し、自然との共存を祝福する祭礼が行われます。
本年は多くが縮小という形になっておりますが、最も大切な「神事 祭礼 法要 護摩」、神仏へ捧げられる祈りは、厳粛に粛々と行われています。

人の目に触れる触れない関係なく、極端に言えば、参拝者が零であっても百であったとしても、神仏へ向けられる真心と準備は、常に同じ。

心があるところに、祈りがある。
その神髄の原点と、しかと向き合う2020年-

Anju

後悔はのこるもの

後悔はのこるもの

私たちが生きているのは常に「今」ですが、私たち人間は「考える」生き物であり、「感じる」ことの偉大さを忘れがちです。

目の前の当たり前があるのは、「いま」という瞬間の積み重ね。「いま」という瞬間「感じる」ことが、心と人生をつくっています。

後悔がないようにどれだけ生きていても、どこかで何かしらの後悔はのこる。

後悔も、生きること…「死生観」の一部ではないでしょうか。
過去と未来について考えることも大切ですが、今、できることがあり、今、共にあるものがある。

いずれ後悔がのこってしまうとしても、今、感じて 観て 生きて 選択することに、後悔がないようにする。

「後悔がないように生きる」よりも「後悔があるのが人生だから。じゃあ今どうベストを尽くしていけるかな」と想う方が、生き苦しさ(息苦しさ)は減ります。

今、今日、皆様は何を感じ、決断して、生きますか?

Anju

唯一心に届けられるもの

唯一心に届けられるもの
“Three things cannot be long hidden: the sun, the moon and the truth.“ -Buddha

「生きる行いを修める」ことを「修行」と、櫻本坊では常にお伝えしています。
つまり儀式中の作法や技術、山の中、もしくは社寺 聖地の中だけが行場ではなく、日常・社会・職場・家庭・人生全てが行場。

その「生きる行いを修める」なかで、毎日、私たち人間は知らず知らずのうちに罪を作っています。

小さな嘘、小さな誤魔化し、小さな陰口、小さな批判・小さな殺傷(食物 動物 植物 虫)…「小さな」ことが積もり重なると、いずれ「大きな」渦となり溜まっていく罪。

日常で、どれだけその小さな罪に気付き、反省し、努力し、感謝し、自他への思いやりある言動を選択していけるか。

常に私たちは選択しながら、生きています。

そしてその選択は、やがて人柄・人相・習慣・言葉・雰囲気・生き方となり、必ず相手に伝わっていきます。
ごまかしが効かない「心」「言霊」の時代に、今生きている私たち

「生きる行いを修める」には、心を投入することが同時に伴っていなければ、意味がありません。

神仏にも人にも、その「御心」に確実に伝わっていくのは…ごまかしが一切ない「真心」です。

Anju