6月17日 東京 虎ノ門ヒルズにて
「桜とともに生きる 〜吉野・生命と再生の聖地〜」シンポジウムが開催致します。
皆さんにお会いできるのを楽しみにしております✨
ぜひご来場下さいませ✨
6月17日 東京 虎ノ門ヒルズにて
「桜とともに生きる 〜吉野・生命と再生の聖地〜」シンポジウムが開催致します。
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4月29日 京都国際会館で、第64回 日本輸血・細胞治療学会総会が開催され、住職が講師として講演させて頂きました。
3年前から、日本赤十字社 近畿さい帯血バンク様とご縁があり、さい帯血採取病院(主に産婦人科)での、教育訓練の一環として、ドクター・看護師さんへ向けての講演をさせていただく中で、今回、学会総会での講演と繋げて頂きました。
*さい帯血移植は、母体と赤ちゃんをつなぐ、へその緒から採取される臍帯血を、血液ガンの患者さんへ点滴移植する治療です。
事前に妊婦さんとご家族の同意を得て、出産時に提供してもらいます。母体にも赤ちゃんにも、負担も痛みも影響もありません。
そして、臍帯血バンクで冷結保管され、移植を必要とする患者さんの要請が入った時、型が合う臍帯血が、病院へ冷凍boxに入れられて運ばれます。
身近で出産を控えた方、将来出産するさい、このブログを通しても「ああ〜さい帯血が何とかって言ってたな〜」と思い出して頂けると幸いです。
医療現場で、医療従事者に向けて、では何を話しているのか?
それは、主に仏教の観点から考える命(生と死)について・・・
ではなくて、一人の人間として、家族の物語、希望や夢が支える命の輝く時間への想い、「祈り」と「医学」の密接な繋がりについての想い、生命のバトンの繋がり、というものを中心に、講演会ではお話させて頂いております。
宇宙や 地球の規模の中でいうならば、1人1人の命の輝きというのは、ほんの小さな光かもしれません。
でも、全ての命は、この自然の中で繋がっていること-Circle of Life-を思うと、他人事ではありません。
全ての命は、魂は、愛や祈りや希望や 絆や慈悲や信じること、想いにより繋がっているということ。
こういった目に見えない想いこそ、大きな「治癒力」に繋がっていくのは、確かなことだと信じています。
でも、そんなの目に見えないやん?
目に見えないものを、どうやって信じればいいの?
目に見えないからといって、繋がっていないというわけではなくて。
目に見えないからといって、そこに何もないわけではなくて。
確かに、目に見えないことを信じることは、思っているよりも結構難しくて。
「空」「無」
例えば、空気は、目に見えてないだけで、「からっぽ」のようだけど、実は満ちていて。満たされていて。
「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばん大切なことは、目に見えない。」
星の王子さまも、そう私達に教えてくれています。
命に触れ、命を守り、命を繋いでいるのは、医療現場だけではなく、医療従事者だけでなく、私達皆も同じです。
さい帯血のように、お母さんや赤ちゃんも、名もなきヒーローであります。
「産まれてきたら、一緒にいっぱい遊ぼうね。沢山の場所に一緒に行こうね」
「元気に産まれてきてね。健康で育ってね。」
「産まれてきてくれて、ありがとう。あなたに会えて良かった。幸せだよ!」
お母さんと赤ちゃんを繋ぐ、生命のラインである、へその緒、そしてさい帯血には、そんな溢れんばかりの愛と祈りでいっぱいです。
その愛と祈りのラインは、必ず、確実に、移植を必要としている患者さんの生きる希望となり、生きる力となります。
人を救うのは、神や仏でもありますが、でも誰よりも人を救うのは、それもまた人であると思います。
四苦八苦の言葉の中には、愛別離苦という、1つの苦しみがあります。
愛する人と別れなければいけない、誰もが経験する苦しみの1つです。
でも、この言葉の基には『愛する人に出会っている』という素晴らしい喜びがあるということ。
人生の伴侶に出会い、新たな命に出会うということ。
今、この自分の命があるのも、両親に祖父母、そのまた曾祖父母…ご先祖様達の、その中の誰1人と欠けても、今の私達は存在していなくて。
これから出会う新しい命も、今の全てのご縁の中の、誰1人と欠けては、出会うことが出来ない、奇跡のかたまり。
夜寝る前の「おやすみ」
朝起きた時の「おはよう」
また明日も、その「おはよう」が聞けますように。
当たり前すぎる、この何気ない言葉も、相手があってこそ、命があってこそ…
櫻本坊は、護摩 ご祈祷の道場です。
櫻本坊の一番深く太い中心軸は、護摩であり、祈ることです。
修験道の行者さん達だけでなく、今既にご縁のある方、これからご縁のある全ての方へ、オープンであり、全ての方の為の祈る場であり、全ての方の為に護摩は焚かれます。
医学では治しきれない「心」を癒せれる場、医学では埋めきれない隙間を埋めれる場、そのような場でありたいと願います。
明日への出発をサポートできるような、背中をそっと押せるような、その人の心に寄り添っていけるような、生きる力を支えれるような…
そんな、心身のケアが出来る場として、静養、養生の場として、命が輝く場として、全てとの調和の中を生きていきたい、自己満足ではなく他者満足を生き方として生きていきたい、それが、当山に携わる私達の願いです。
護摩や言霊の「祈り」と共に、私達に出来る心身のケアの中に、食養医学や、植物療法、そして実際に専門機関で医学知識を現在取得中ですので、将来、何かしら、私達の想いや夢というものが繋がり、確実に形となり、受け入れられていくといいな、と願っています。
人生は長さではなく、生き方だから。
今夜の「おやすみ」
明日の朝の「おはよう」
また「おやすみ」
そして「おはよう」
かけがえのない人への、その言葉の先に、限りない愛が満ちていますように。
その愛こそが、今日を生き明日を生きる力となりますように。
『想いを力に』
by anju
5月6日・7日、得度式がありました。
当山では、年に2回(春と秋頃)行われており、毎回、様々な想いや誓いを胸に、様々な方々が得度を受けに来られます。
今年は、ドイツ人女性が、得度を受けられ、祈る想いにボーダーは存在しないことを、更に実感する日々です^^
得度、と辞書でひくと、よく目にするのは「出家するための儀式」と書かれています。
が、現代では「僧侶になるための儀式」の意味だけでなく、仏の心を敬い、心身の浄化を志し、自己認知を深め、人へ社会への自分らしい貢献の仕方を見出す(あくまでも私の表現の仕方です)、このように、1つの門を開く、という形で、どなたでも、得度を受けて頂けます。
ただ、その門を自らの手で開けて、その先に続く道を、「信」という軸を持って深めていきたい、という気持ちがあるかどうかの面接を、必ず受けて頂きます。
「受けろ、と言われたから来ました」
「~をするのに必要だから、しょうがなく受けに来ました」
といった気持ちで望まれる方には、申し訳ありませんが、受けて頂けません。
人に言われて来た、ではなく、自分の意志で来たかどうか。
嫌々来た、ではなく、心から望んで来たかどうか。
その、心の持ち方を特に意識しています。
また、得度を受けることはゴールではなく、始まりにすぎません。
「得度を受けたから全てが修了で、何をしてもいい」
「得度を受けたから、私は人と違って偉い」
「得度っていう、また新しい資格を取った」
そのような事を言われる方がいらっしゃる、と、よくお聞きすることがあるのですが、そういった感覚で得度を考えている人がいることに、少し悲しく感じます。
いろんな意味で、「信仰」を見直す時期がきているのではないのかな・・と感じます。
本当の意味で、この門を開けて歩んでおられる姿は、ありのままの自分を受け入れ、平等で、謙虚で、人を理解し愛することに努力されています。
以前の記事でも触れたことですが、修行とはいったい何のためにするものなのか。
道場に来たときだけ、人が大勢いて見られているときだけ、見えてるところだけ、そこでだけ。形だけ。恰好だけ。口だけ。
そしてその心持ちが、人への態度や、物の扱い方や、例えば掃除の仕方一つとっても、そのまま形になって表れてきます。
日常を丁寧に生きることこそ、毎日の生活を大切に生きることこそ、何よりも大切な修行ではないでしょうか?
自分のありのままを受け入れる勇気を持つこと。
目の前にいる家族を愛し、仲間や友人を尊重し、人それぞれの違いを認めること。
自分と意見や価値観が違う人を否定し排除するのではなく、自分より弱者と決めつけて人を馬鹿にするのではなく、生きている間に、どれだけ自己認知を深めれ、人を理解し愛せるか。
見返りを求めない、社会・人への貢献ができるか。
人の幸せを素直に喜べ、それが自分の幸せとして感じれるか。
滝を浴びる、護摩をたく、お経を唱える、山に入る、荒行だけが、決して修行ではありません。
人への感謝の気持ちや、自然界で生かされていることへの感謝。
日常生活の中の当たり前ができなくて、その当たり前をないがしろにしてしまっていては、例えば荒行だけしても、根本的なところでの軸が立たないように思います。
スポーツでも学業でも、基礎が一番大事!基本ができなくては、何もできない!
まさにその通りやな~と私も常日頃、できていないことだらけで、反省ばかりですが、この考え方をいつも頭に置き、初心に戻り、まずは普段の生活を見直すよう心掛けています。
そして、座学だけでなく、実際に体を動かしての作務の時間もあります。
作務は、何も特別なことをするのではなく、境内の草ひきや、お堂周りの掃除、トイレ・お風呂掃除など、普段家でする基本的な作務と何も変わりません。
掃除は、自分の身の回りだけでなくて、例えばそこに次訪れる人の気持ちを心地よくすることができる、これも1つの人への貢献だと思います。
掃除するときの気持ちは、そのまま掃除の仕方や、仕上がりに形として出てきますよね。
道場での作務ってもっと特別なことをするのかと思ってた!と感じるかもしれませんが、大切なのは、日常生活に根付く、最も根本的で「当たり前」なことに、今一度気づいてもらうこと。
(よくよく考えると、道場での日々というのは、何も特別なことはなく、同じように、日常の当たり前を生きています)
その作業をしているときに、どんな感情が心の中にあって、どのような気持ちでしていて、何を思い、誰を思い、どうその時間を過ごしているのかを、自身で気づき知ること。
そして、得度を終えて、家に帰ったとき、どうその体感を生かしていけるか、生活の中に根付かさせていけるか。
「当たり前」を「当たり前」にできていけるか。
それが大切だと考えています。
このような毎日の「当たり前」を「当たり前」にする誰もが、既に修行者!ではないでしょうか^^
また、同じ時間を共に過ごす人達とのハーモニーを学ぶこと。
もちろん、私たちは人間だから。
感情があるから。
誰だって、苦手だと感じる人がいて当たり前だし、体調や気分によっても人への接し方に変化が出てしまうのも当たり前。
だって、人間だから。
完璧な人なんて存在しないから。
そんな一瞬一瞬を流れる感情の波や、氣の流れの中で、その場で共に過ごす人たちと、いかに調和を保てるよう心を向けれるか。
例えば、一人でもなんとなく機嫌が悪かったり、なんとなくピリピリしてる感じがあったり、それが、知らずのうちに、目に見える形・目に見えない形で、態度や言葉遣いや目つきや波動として出ると、それだけで場の調和は乱れてしまいます。
その感情を持つことは、全然悪いことではなくて、むしろ当たり前なことですが、可能な限りで、調和を保てるように、自身に、そして相手に心を向けれると、きっと自分たちを取り囲む周りの環境は平和で幸せで笑顔に包まれ、それが世界平和に繋がっていくと思います。
奥駆修行でもそうですが、30人前後で5日間、山岳修行を共にすることは、自然の中に息づく生命や神仏を感じること、自身の内面と対話すること、祈ること、そして人とのハーモニーを学ぶ場でもあります。
歩くスピードや、歩幅の違い、年齢も職業も生きてきたバックグラウンドも、何もかも違う人たちが集まって、共に歩くのだから、やはり最初は、その全体の歩調や歩幅に慣れるまで大変ではないのかな?と思います。
皆がそれぞれ、自分のことばかり考えていたら、きっと全体のハーモニーは保てなくなるでしょう。
怪我をしたり、文句や愚痴や人のせい、という負の感情が心を支配してしまうでしょう。
でも、相手のことを想いあいながら、支えあいながら、共に進む道には、そこには調和という、その道を示してくれる光となるのではないでしょうか。
そして、その体感こそが、人生を、社会を生きていくなかで、人と共に生きることの意味を示してくれるのではないのかな、と個人的にはそう考えています^^
全ては、相手があってこそ。
そして、生命があってこそ。
一人で生きている人はいなくて・・
「他人事」の命は存在しなくて・・
全ては、人は、みんな繋がっているから。
そのような「当たり前」を見直し、ハーモニーを意識し、何かしら、この2日間が、皆さんにとっての「きっかけ」や「気づき」となったことを、また、なっていくことを、願ってやみません。
自ら開かれた門を自分らしく歩んでいかれるみなさんへ。
得度式を終え、あらためてお伝えしたい言葉は、
「お誕生日、おめでとうございます!」
です!
戒名という新たな名前に、自分らしく、魂を吹き込んでいかれますよう、自分らしく、生命を生きていかれますよう、心からお祈り申し上げます。
「産まれてきてくれて、ありがとう」
命の誕生の瞬間を喜ぶのは、命の全うの瞬間を悲しむのは、親や家族だけではなくて。
そこには、必ず、繋がっているたくさんの人たちの命や人生や想いがあって。
与えられた命を、与えられた所で、与えられた形で、自分らしく生きること。
それも、一つの愛の形であり、そして私たちにできる、最大の貢献であり恩返しであるのではないかな・・^^
毎日が、誰かの誕生日。
5月7日 得度式、皆さんの誕生日を、共にお祝いできたこと、幸せに思います。
全ての繋がるご縁に感謝です。
ありがとうございます。
by anju
5月3日 午前3時
大峰山の戸開け式が行われました。
まだまだ暗闇と寒さの残る静寂な聖地での戸開け式の後の、朝日に染まる空の美しさと澄んだ空気は、住職から送られてきた写真からも伝わってきました。
9月23日の戸閉め式まで、5か月近く、大峰山は修行者を受け入れる季節がきました。
7月には奥駆修行もあり、真夜中から早朝にかけて、吉野山中に修行者の法螺貝の音、錫杖の音、リュックに付けられた鈴音、そしてお経を唱える声が鳴り響きます。
(午前2時半に吉野を出発し大峯山をめがけるため)
大峰山上の櫻本坊 参籠所でも、縁の下の力持ちの方達がいて下さっています。
修行者の皆さんを迎えるため、到着された方の疲れを癒せるように、出発する方の道中の安全を祈りながら、山上 櫻本坊の守をして下さっています。
また、戸開け式をめがけて来られる方のためにも、4月末から山上に登り、準備をして下さっていました。
そして、行者さんの中にも、ご奉仕で、その準備のために同じく早くから山上に行って下さり、参籠所の工事や掃除や、さまざまなサポートをして下さっていました。
どのような行事・法要・神事でもそうですが、支えて下さる方々がいて下さるから、全ては実現でき、祈りの「現場」を守ることができること。
櫻本坊1つをとってもそうです、例えば僧侶1人で出来ることは限られています。そこに携わる人間だけで出来ることはほんの僅かです。
多くは、やはり支えて下さる方達がいて、祈る想いを分かち合える方達が来て下さるから、共に手を合わせれる空間があるから。
神仏と、皆一人一人の祈りと想いが1つになってこそ、それこそ「ひらけごま」は本当に道を示してくれる。
こういった方々の存在を通して気づかされ、本当に毎回同じ文章の繰り返しになりますが(何度でも書いていきますが^^)感謝の気持ちで溢れてきます。
山に入ることは、自然と一体になり、自分と向き合う貴重な時間です。
自分と向き合うと、自然と相手とも向き合い、人を想う心に気づかされるのではないでしょうか。
一歩一歩が、祈りの道であり、その一歩一歩を踏みしめる道も、また生命の道でもあります。
地球・自然は循環し続け、その調和の中に生かされている私たち。
全ての命の存在の平和や愛や幸せを願う道。
数ある聖地と呼ばれる場所に流れる Circle of Lifeに教えられる事はいっぱいです。
私自身、去年の10月、十津川村から、釈迦ヶ岳~楊枝宿の山道を歩きました。
私にとって、人生2度目の本格的な山でした。
(1回目は弥山でした)
山に入って、ひたすら歩いたその12時間は、人生を歩む自分の立ち位置と重なり、人生を教えられたようでした。
転ばないように下ばっかみて歩いてると、道の全体は見えません。
でも、そこには動物の足跡があって、植物の健気な姿に勇気づけられます。
周りの景色に気をとられて歩いてると、自分の足もとを忘れがちになります。
でも、雄大な風景に抱かれ見守られている心地よさに、ちっぽけな悩みや不安は消えていきます。
水たまりがあったり、分かれ道があったり。
避けるように歩いても、違うところでは避けられなかったり、右の道を選んだけど、結局は左の道を選んでいても、最終的には同じ場所にでたり。
こんな山道に、それでも先人達が歩いてきた道筋は、失われずに続いているのです。
その道筋だけ、植物は咲かずに、まるで人間のために、迷わないように、道を示してくれているのです。
そんな山の、私たちに向けられる優しさを感じ、その道筋を辿れる喜びを感じました。
例えばご先祖様や、歴史を切り開いてきた偉人達が歩いた足跡が、今を生きる私たちの前を向いて生きるヒントや希望になったり。
いや、ひかれたレールの上を歩くのは嫌だ、道なき道を行くんだ、自分で道を切り開いていくんだ、その熱意や勇気や原動力も、隣で同じように道を繋げ歩く仲間やライバルの存在のおかげだったり。
でも(季節が季節でしたので)他に誰も歩いていなくて、この地球上に自分たちだけしかいないように感じて、風の音が話声のように聞こえてきたり。
霧がでてきて周りが見えなくなって、日が沈む直前の焦りや、暗闇の中を延々と歩く恐怖。
野生の鹿の群れに遭遇して、ハラハラしながら横切ったとき、鹿達は私たちが見えなくなるまで、じっとこちらを見つめていたこと。
神仏が宿る山は、偉大であり、そして孤独でした。
想念の世界って、こんな場所なのかな?
そう思わせられた経験でした。
自然の優しさと、自然の怖さに気づかされた経験でした。
山を人生のように例える意味が、少し分かった気がしました。
入口は違っても、その登る道が別々でも、登るスピードや登り方が違っても、目指す山頂は同じ。
試練の中にも、喜びの感動の中にも、全ての中に求める答えや真実があって。
そこには、必ず自分たちを見守ってくれている存在があって。
それが人生っていうものじゃないのかな。
大峰山が今年も開いて、そんな去年の事を思い出してた今日。
修験は、仏教・儒教・密教・道教・景教・陰陽道・神道・・・などが融合した「道」です。
山に入ること、滝を浴びること、護摩を焚くこと・・
自然に全てを委ね、まず祈ることから始まる「道」が、そこにはあります。
マザーテレサの言葉のように、世界平和のために出来ることは、まずは家に帰り家族を愛することから。
自分を愛すること、それだけ聞くと・言うと、自分本位で勝手な人間だ、と聞き取られてしまいがちですが、人を幸せにするには、自分が幸せでないと、自分が満たされていないと、人の心を幸せで笑顔で満たすことはできません。
まずは自分という存在を愛し、そして家族を愛す。家族の幸せが、それが自分の幸せだから。
その先に、自分や家族の幸せだけでなく、人の幸せを願い、人の幸せに繋げていくのが、その「道」の1つの目的ではないでしょうか。
人の幸せが、それが自分の幸せだから。
お釈迦様の歩いた跡には、花が咲いたといわれます。
今、この瞬間を生きる私たちの歩く道が、沢山の幸せで満ちていますように。
今、この瞬間を生きる私たちの歩く道が、誰かのための道しるべとなっていきますように。
大峰の山々を歩かれる方達の、全ての命の幸せと、道中安全をお祈りしています。
by anju