GAGA | ブログ@櫻本坊

やまと ことのは つづり

雨降って地固まる

毎月1日・16日は、聖天さんのご縁日です。
そして本日10月16日は、満月!
聖天祭・十一面観音ご開帳法要が執り行われました10月1日は、新月でした。
月の満ち欠けと万物との繋がりや引き寄せを感じながら、本日のブログを書くに至りました。

10月1日・新月の夜、予報通りの雨による不安定な夜空。
しかし、真夜中12時頃に、空を覆っていた真っ黒な雲が晴れ、天の河に近いと言っても過言ではない、満天の星空が見れた時間帯がありました。
新月の夜空の時にこそ見れる、漆黒の空に映える、まばゆい星の輝き。
少しすると、また分厚い雲に覆われ、しびしびと雨が降り始めました。

太陽も月も星も、それぞれ発する光は違っていても、必ずそこに、空に天に、輝いていることは確かです。
月は、雲に覆われていようがいまいが、姿が見えようが見えまいが、地球の周りをまわり続け、海の満ち引きや自然界・または人間の身体のサークルといった、循環を促してくれていることには変わりません。

光はいつもそこにある。
雲に覆われて、目に見えてその光を見ることができなくても、そこに光があることに変わりはない。
目をつぶってみて、心に浮かぶその希望の光を心で見る、星の王子様になりきった、1日の夜でした。

聖天祭

そして、迎えた1日の朝は、降り続ける雨。
しかし、この雨は、浄化の雨であって、十一面観音さんの喜びの雨だったのではないでしょうか。
観音さんは「陰」を好むといわれており、雨であったり月光であったりする、と、ある書物で読んだことがあります。
そして、不思議なことに、13時からのご開帳法要の頃には雨はやみ、聖天堂に向かって太陽の光が真っ直ぐ射していた風景が、とても印象に残る法要でした。

そして芳しく咲いていた銀木犀の最後の花びら達が、この日散りました。

本年度より、聖天祭の法要内容と時間帯が変更になり、その変更の通知や伝達に関しまして、皆さまにもご協力頂きましたこと、誠に感謝申し上げます。

歴史の中で長く続いていたことを、本来のあるべき形・姿に戻す、初心に帰って軸を立て直す、変えていく、ということは、当然ですが、たった一晩・一日でガラッと変わるものではありません。もちろん、立て直した軸の「根」をゆるぎないものにしていくにも、そこら数年でできるものではありません。
「リフォーメーション・改革」と「レボルーション・革命」の違いにも言われるように、ゆっくり時間をかけて変えていき徐々に受け入れていくか、パチッと指を鳴らした瞬間にすべてが変わりすぐに受け入れる必要があるか。
それが、どの状況で、どう受け取られたであっても、どちらであっても、どちらにも、そこに至るまでの長い長い道のりがあり、重ねられてきた深い想いと祈りがあり、「変えていく・変わっていく」必要があったから、それが全ての原点である、と個人的には思うことです。そして、これから更に積み重ねられていく祈りと言動力と、真心の日々が続いていきます。

法要の内容が変わったとしても、神仏に向ける心に限りはありません。
参拝者の数の多少に関係なく、その場にいる人の心と、神仏の心が共に一つになれば、必ず祈りは繋がるはず。
護摩がまさにそうです。護摩は、コスプレイヤーによるキャンプファイヤーでは決して、決してなく、祈りを神仏と繋ぐ神聖な法要です。護摩木1本1本にこめられた、1人1人の想いを繋ぐ。
でも、そこに、心がなければ、何も始まりません。
人間の都合だけで、人間だけで盛り上がる形ではなく、何よりも神仏が求められる望まれる喜ばれる形で、人間として出来ることを精一杯させてもらう。「ご奉仕」は神仏へ向けてすることである、と。
そのもっとも根本な初心こそ、今の時代に、あらためて見直す必要があるのではないかな、と自分を含め、心の向け場所や向け方を考えさせられます。

真心こそ、神仏の、そして人の心を動かす原動力。
目に見えることでないことほど、難しいけれど、その真心を持つことが、日々日常を「生きる」ことであり、「祈り」の意味なのではないかな...

祈願の前に、まず感謝をする心。
今年の10月1日の変化は、その原点へと心を戻し、そしてこれからも続く祈りの道へ心を進ませてもらえた日でした。

皆さまにとっても、1日にスタートした新月が、今日の満月へと満ちたように、心が充電された日々でありましたように^^

Anju

原点に帰る〜聖天さん〜

肌に感じる風、そして太陽の光は、秋を感じるようになりました。

田んぼの稲の背の高さやゴールドへの色の変化、夕陽の色と周りの雲、夜空の透き通り感、虫の声…様々な場面で、夏の終わりの近づきを知らせてくれています。

体の細胞レベルでは、季節のチェンジを本能的に感じ取っていて、自然と欲する食物や飲物も変化していることを実感します。

どんな場所にいても、このような自然との繋がりの中で感じ取れる素直な感覚というものを、いつまでも忘れずにいたいな、としみじみ感じるこの頃です^^

Fall sky

夏を過ぎると、秋の聖天大祭、天武天皇祭へ繋がっていきますが、今日は、聖天さんについて少し触れようかな、と思います!

今年始めに、当山の聖天堂の前に、新しく絵馬が仲間入りし、良縁をお祈りする、1つの目に見えた形での繋がりというものが出来ました。

風がふいた時、カラカラ…と絵馬と絵馬が当たり音が静かに響く境内。
神仏と私達人間にとって、こういった風や音というものも、言葉ではない繋がりではないのかな。

Ema1

Ema

結婚や恋愛のみならず、家族 友人 仲間 仕事 学校 地域 社会 自然 神仏…全ての繋がり、絆の中での、必要とし必要とされる素晴らしいご縁をお祈りします。

また因縁や悪縁というのも、断ち切れるように、乗り越えていくため自身が強くなれるように、支え守って下さるよう、お祈りする場。

ご縁は繋ぐだけでなく、お互いにとってベストな形での関わり方や距離というものの、バランスではないのかな、とも感じます。

Handmade

聖天堂には絵馬の他にも、聖天護摩木、他お守2体(聖天 巾着守&十一面観音 身代わり守)があります。

巾着守は、完全な手作りのお守となっていて、中に入れる水晶、巾着の布地や縫い糸、紐や台紙、使用する針や工具に至るまで、聖天堂でご祈願してから、1から作らせてもらっています。

以前、天狗さんのお守紹介の時にも触れたことですが、こういった何気ないお守1つにしても、神仏のお力をお借りして守って頂く、という感謝の気持ちを第一に持って、これらを持たれる方の幸せに繋がっていきますよう、そのためにも場の空気を清らかに保つ、人間としての出来る限りの努力は怠らないよう心がけています。

さて
今までの記事の中で、繰り返しお伝えてしてきた当山の「変化」の中で、一番大きく変わろうとしているのが、聖天大祭ではないでしょうか。

今年から、聖天大祭の法要の内容や時間帯など、当山の歴史の中でも、大きな変化の年となります。

聖天さんは、本来完全秘仏であり、浴油秘法供は本来導師のみが行うということ、本来のあるべきお姿、本来の方法で、聖天さんをお祀りする必要があると強く感じたからです。

今まで当山で行われていた形での、夜中の浴油秘法供は、決して「ナイト ミュージアム」ではありません。
非常に、非常に厳粛なはずの法要が、時代の流れの中で違う形へと変わってしまっていると感じずにはいられない現状がありました。

人間の都合ではなく、神仏が本来求められている形で、キチンと法要をさせて頂きたい。
人を喜ばせるため、というのが1番の目的ではなく、根本には神仏が喜ばれる(求められる)形&姿勢&心持ちで、まず第一に神仏と向き合うということ。

日々の法要、祭礼の行事の大小に関わらず、1つ1つ心をこめてするのは当然ですが、その中でも、聖天大祭は、特に非常に、非常に厳粛な法要でありました。
そして、それは、これからも変わりません。

聖天さんの側に必ずいらっしゃる、十一面観音さんを、本年度より、御前立ちとしてご開帳させて頂くことになりました。

10月1日 午後1時より、聖天尊 本地仏 秘仏 十一面観世音菩薩 特別ご開帳法要

夜中の浴油秘法供はございません。ご注意下さい 

文面でのお知らせ、ホームページ&フェイスブックでも随時更新しておりますが、毎年ご参拝の方にお伝え頂ければ幸いです。

原点に帰り、初心に戻り、良い方向へと必ず向かう、この「変化」が、多くの方の幸せへと繋がる道しるべとなりますように。

Anju

 

マグネット

8日24日は、地蔵尊大祭があり、ご先祖様や水子、大切な方々のお供養をさせて頂く日でした。

実は少し前まで、なぜ日本では、亡くなった人への行事や法事などが、こんなに長い年月をかけて沢山あるのかな?と疑問に思っていた時期がありました。
仏壇にお供えをし、お墓を掃除したり、お盆参りがあり、家族が集まり、またこういった法要行事が盛んに各地で行われ、いつもより少しばかり、故人を意識する時期。

お盆という時期に示されているように、あっちの‘‘目に見えない世界‘‘と、こっちの‘‘目に見える世界‘‘、この2つの世界の壁が薄くなって、大切な故人の方達との距離が近くなる?
そのような日本独特の、故人との魂の繋がりを大切にする考え方に、あらためて興味深いというか、当然に営なまれ続けている行事1つ1つの意味を、きちんと理解したいと思うようになりました。

もちろん、時代の変動の中で、ライフスタイルや考え方、価値観など、日本のこういった行事も、形が変わりつつあります。
それはそれで、変わらぬ真実というものは繋げ、そして時代に応じた形に変わるべき所は、変わっていくことを受け入れていくだけのこと。
何より大切なのは、心がどこにあるか、だと思うからです。

お盆や、こういった供養という法要などは、暗くしんみりなイメージがつきものですが、命を祝福する時間でもあると思うようになりました。
今自分たちがここに生かされている命に感謝する、自分の命を繋げてくれた、ご先祖様の命と人生、その人たちが出会った数えきれない人たちとのご縁と奇跡に感謝する。
その誰一人と欠けても、今の自分は存在していない。自分のご先祖様達だけでない、全ての先人の命も繋がっているから。
だから、お盆という時期は、あらためて、命の繋がりに感謝し、命を祝福する時間なのかな、と思います。

様々な理由での死に直面し、故人を想うことが辛かったり、穏やかに向き合えないことも当然ありますが、自分の命という、与えられている時間を生き抜くことだけは、それだけは投げ出したくない。
何であの人が死んでしまって、私は生かされたのか、そんな風に生きることに罪悪感を感じてしまう時もあるかもしれません。
でも、生かされたこの命、苦しい時は苦しい中を苦しみながらでいい、何が何でも乗り越えていかなきゃ、その人を悲せませないように生きていかなきゃ。
生きているからこそ、肉体があるからこそ、可能なことは山ほどあって、実現できることがある。

「今、ここで、生きていることが、ただ素晴らしくて、命がとてつもなく、ただ愛おしい」

そんな風に個人的には、地蔵尊大祭の時期は、生きていく決意、そして生きている幸せを、再確認させてくれる季節でもあります。

さて、こちらのブログでお馴染み、縁の下の力持ちの皆さん!地蔵尊大祭編です^^
らぶやで2
らぶやで1
節分と地蔵尊大祭のお塔婆書きを、15年以上、毎年泊まり込みでご奉仕して下さっています、元警察官の皆さん。
現役時代からのご縁でいうと、もうそれこそ30年以上と伺っています!
こんな風に、ご縁の始まりは十人十色で、関わり方も十人十色。
行者さんではない方々にも、様々な場面で支えて頂いており、そのお気持ちがとても嬉しく、感謝感謝です。

様々なバックグラウンドを「らしく」生きてこられた方々とのご縁が溢れる当山にも、皆さん1人1人に物語があり、それをシェアし、お互いを向上していける空間があります。

人は人により学び、教えられ、愛を知り、別れを知り、喜びも苦悩も何もかも、多くを人から経験する。
憧れの師に出会い理想を想像し、反面教師を通して自分を見、誰もが人生を誰かとシェアし、繋がってない人なんか一人も存在しない。
人との関わりの中で「自分らしさ」を磨き、そしてその「個性」「違い」を認め合い尊重し合っていく。
生き方も、繋ぎ方も、関わり方も、それぞれ違って当たり前、違って、それがいい。

自分の命が祝福されていると同じに、あの人の、この人の、全ての相手の命も祝福されている。
皆さんにとっても、命の祝福を感じるお盆となりましたよう、お祈りいたします。

Anju

この道を行く意味を。

こちらのブログを開設するに至って、たくさん伝えていきたい想いというのがありました。
その想いを、少しずつお伝えしていけたらいいなと、思います。

まず、こちらのブログを担当しているのは、僧侶や神主や牧師のような立場にいるものでもなく、行者でもありません。
神仏習合の道場という、ちょっと日常より濃いめの祈りの環境にいる時間が長い中で、日々感じること、今までなかなか表に出なかった、そして出せなかった想いを、いち人間が、その目線と視点から、率直に綴っています。

ですので、ブログ、また主なフェイスブック投稿の内容についての窓口は、私Anjuまでお願い致します!

祈りは、日常の中に根付き、誰もが毎日祈りの中で生活していると思います。

「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「あの人元気にしてるかな?」
「お誕生日おめでとう!」
「体調、早く治してね」
「すっごく心配したんだよ」
「また会いたい!また会おうね!」
「おかえり、無事で良かった!」
「元気に健康で産まれてきてね」
「おはよう」「おやすみ」

「ありがとう」「ごめんね」「愛してる」「あなたがいてくれて本当に良かった」

日々何気なく発している言葉や、人との会話、時たま叱られる言葉の中には、その人を想う祈りで満ちています。
山、木、石…自然の中に神仏の存在を感じ、自然に向かって手を合わせる精神を持つ日本人のスピリット、日本語の言い回しや漢字に込められた深い意味、季節に沿った伝統や風習、日本古来食の身土不二の極意、全てには、神仏と自然と人の繋がりと共存を感じることができます。

まさに「一如」

<良道(よしみち)書>

それは、修行にも言えることだと思います。

性別、職業、出身地など、全てを脱ぎ捨てると、そこに残るのは「心」です。
その心で、神仏 自然 人と向き合い繋がっていくこと。

本当の修行とは、普段の日常生活を丁寧に生き、世のため人のために、何が出来るのか考え行動し、自分を家族を周りの人達を大事にし、自然や地域や社会の中で、毎日を生きること。
与えられた命を、命をかけて生きること。

日常をどう生きるかこそが、修行の最もな基本であるのではないかと。
だから何も特別な荒行をすることだけが、えらいのでは決してありません。

もちろん、そこには例えば「修験」と名のつく、言えば一筋の道があります。
そこには例えば、その道を行く人が身につける基本的な作法や、着衣や、持ち物があります。

でも何が一番大切か。
それは、例えば資格があることではなく、例えば衣装を着ていることではなく、例えば護摩を作法通りたけることではなく、例えばお経を1から10まで唱えれることでは本来なくて…

そこに「心」があるかどうかです。

何のために誰のために「祈る」のか。

修験という道の素晴らしいな、と感じることの1つとして、それは理論の前にまず体感があり、例えば自然に入りそこで実際体感し腑に落ちたことは、心身に確実に刻まれていくこと。

自然が教えてくれるcircle of lifeと陰陽そのもの、神仏 自然 人との一体感、自分の内面を見つめ+−のバランスを整え満たすことで、人の幸せを想う力が満ちていくこと。

別の言い方をすれば、本来、身1つで歩める道であると思うのです。
何も無くても、そこに心があれば、心さえあれば、祈りの道は必ず繋がっている。
お経を知らなくても(そんな私はお経は全く覚えていません)、心の底からの想いを神仏に伝えること、相手に伝えること、それが既に最強の祈りの言葉だと思います。

もっと言うと、本来…修験は行者さんだけの道ではなく、全ての人の生活に溢れる祈りの道であると思います。ただ「修験」なんていうカッコイイ名がついてしまっているだけ。

手段として、そこには例えばそれぞれ意味のある作法や着衣や道具があると思うのですが、それはほんの、ほんの一部のこと。
一番大切な、なぜこの道を行くのか、なぜ祈るのかという目的を忘れないことだと切実に感じます。

「目的」と「手段」を逆転させてはいけない、と。

神仏への限界のない真心、自然への敬い、一緒にこの地球で生きる全ての人との縁への感謝。

「今、ここで生かされている」ことの奇跡と事実を噛み締めること。

時代とともに、形や方法が変わることもある、時代が流れても、変わらない真実がある。

当山も、時代とともに、そして変えていきたいと願う所、変わるべき所は、1日1mmのスピードかもしれませんが、変わってきている真っ最中です。
でも、例えば1年後の目に見えて進んでいてほしい36.5cm、そのために、私達自身も意識の変革、見つめ直す必要のある多くの課題を1つずつクリアーにしていっている過程にあります。
だからこそ、変わらず流れる祈りの心というものは、今まで以上にキチンと、伝え繋げていきたい、そしてその想いを、こちらのブログからも、皆さんとシェアしていきたいと心から願っています。

何の為にこの道に入ったのか?
何かしら、必ず想いがあって、求める道があって、ご縁があって、この道を皆一緒に歩んでいるのです。

道の始まりが苦しみであっても、喜びであっても、今の道が幸せに満ちた道であってほしい。
人のため、世のための幸せを願える道であってほしい。
そこには自分、人、自然、そして神仏への愛が、根本にあってほしい。

数えきれないほどの方達とのご縁で繋がれてきた、深い深い想いと祈りで繋がれてきた、この祈りの道を、今一度初心に戻り、一緒に築いていきたいです。

もう一度。

なぜ、この道を行くのですか?

心、はどこにありますか?

この祈りの道を、もっともっと信心の心で満たしていきたい、一人でも多くの人の幸せに繋げていきたい、ただただその一心です。

Anju

一国の良心として

6月30日 愛知県豊橋市 小西マタニティクリニックにて
7月5日 愛知県豊田市 鈴木病院にて
中部さい帯血バンクさんの教育訓練があり、後半部の講演を担当させて頂きました。
豊橋市小西クリニック

中部さい帯血バンク

6月30日
愛知県豊田市 鈴木病院
中部さい帯血バンク7月5日

日本赤十字社 近畿さい帯血バンクさんとのご縁で、2013年~去年で近畿各地にある全ての、さい帯血採取病院で講演をさせて頂き、そして今年は、中部さい帯血バンクさんからの依頼を受けまして、中部エリア(主に名古屋付近)での講演がスタートしました。

前半は、中部さい帯血バンク 松本加代子先生の専門的なお話があり(さい帯血採取データ比較や医療的処置についてなど)、その後、さい帯血移植を受け命を繋げてもらった「患者の家族」としてのお話を中心にさせて頂いています。

大変お忙しい現場にいらっしゃるドクター、ナースの皆さまの貴重なお時間を頂戴して、「救われた命」側の想い・声・感謝の気持ちを直接、「命を救う」側の現場へ届ける機会を頂けていること、大変有り難く、嬉しく、そして使命感というものを強く感じております。

講演の後、よくお聞きする感想として

「さい帯血を採取した後、それがどのように活かされているのかが今まで分からず、実感がなかった」

「お話を聞いて、採取を1パックでも増やし、必要としている患者さんの命に繋がってほしいと強く思った」

「さい帯血採取に携わっていることの尊さと誇りを持てるようになった」

「お話して下さった、その思いにお応えできるように頑張っていきたい、またこの思いが今後の活動の推進力となると思う」

とってもとっても有り難いお言葉のシャワーに、毎回胸がいっぱいです。

お話する内容については、決してお涙ちょうだいを求めてはいません。
一人でも多くの方の、前向きに前へ進むことへの一歩に繋がっていってほしい、生きていくことの勇気に繋がっていってほしい、それが何よりの願いです。

講演の内容の中で、毎回必ずお伝えしたい言葉は何点か決まっているのですが、その中から1つ、今回は紹介させて下さい。(故 巽良道君が、さい帯血移植により、命が輝いていた時に書いたレポートからの抜粋文章になります)

『祈り、思いがあってこそすべては実現されるといっても過言ではないと僕は思う。

いい想いが世界を平和にし、幸せへと導いてくれるのではないだろうか。

念ずれば花ひらく、思いは実現する。逆にいうと、思わなければ始まらない。例えばなにかが実現したとする。それが実現する過程には絶対に実現させようとする思いがあったはずだ。そして実現させるために努力をし、想った。つまり、“できる”“できない”ではなくて“やる”か“やらないか”だと僕は思う。

今日も僕は生きている。今を生きることが未来を創造していくと信じる。

「一国の良心」の一人として…。』

「祈り」と「医学」
治療・治癒力の根本には、治療する側とされる側の、「救いたい」という強い思いと、「お願い・・生きて!死なないで!」「お願い助けて」という心が裂けるような祈りが存在します。

そこに祈り・思いがないとしたら、それは医療の限界を意味すると思います。

世界中で、目を覆いたくなるような悲惨な出来事が多発する近年、命の尊さ・平和とは何か、私たち一人一人に何が出来るのかが問われています。

マザーテレサの言葉にも「愛・信頼・文化・芸術・平和の反対は‘‘無関心‘‘である」とあるように、日本で起こっていないからといって、目をそらしてはいけない事は山ほどあると思います。

いい想いを一人一人が持ち、一人一人の意識が変わっていくことで、必ず周りの人も、社会も、日本も、世界も、いい方向へ変わっていくのではないでしょうか。
「救う命」と「救われる命」は、医療現場だけでなく、日々の日常の中にこそあって、日々の祈りの積み重ねこそが、命を繋ぎ思いを実現していくのでないでしょうか。

みんなが、ヒーローとして産まれてくる。
さい帯血も、その1つ。

そして、今、何が出来るのか。何をやるべきなのか・・
さい帯血の内容から少し離れてしまったかもしれませんが、心を痛める連日のニュースを思い、いろんな想いが重なりました。

さい帯血を含む、骨髄移植や臓器移植など、様々な現場で溢れる必死の家族の思いや祈りに対しても、「自分には起こっていないから」と無関心にならないでほしい、そう強く思います。

次回の講演は、7月26日 名古屋市 星ヶ丘マタニティー病院にて行われます。

水面に広がる輪のように、静かに、でも確実に、心・人・命が繋がっていくことを、ただただ願っています。

この活動も、平和な世界のために、何かしら繋がっていくことと信じています。

想いを力に。

Anju

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