GAGA | ブログ@櫻本坊

やまと ことのは つづり

再生~桜とともに生きる~

6月17日 東京・虎ノ門ヒルズにて「桜とともに生きる‐吉野・生命と再生の聖地‐」シンポジウムが開催され、多くの方にご来場して頂きました。
桜とともに生きる

桜とともに生きる冊子
まず始めに、17日のみならず、長い時間をかけて撮影・取材・編集含め、言葉では言い尽くせない様々な準備をして下さった、奈良・吉野を愛して下さる素晴らしく温かい制作スタッフの皆さま、保山耕一さま 大正まろんさま 増田隆さま 岩渕亜希子さま そして岡本彰夫先生に、心から感謝申し上げます。
皆さまの温かい想いを全身全霊で感じさせて頂き、凝縮された濃い時間を頂けたこと、このような有り難い場を与えて下さったこと、これほど幸せなことはありません。
皆さんと

そして、当日会場にお越し頂いた皆さま、都内・関東圏以外の場所からこの日のために駈けつけて下さった皆さま、来ることが叶わなかったけど多くの温かいメッセージを下さった皆さま、心と心が繋がる素敵なご縁に、心から感謝致します。

会場にて

この高まる気持ち、感謝の気持ち、全てを愛おしく感じる気持ちを、100%言葉に表現することが出来ません。

座談会
保山さんと<左・保山さんと>

今回のシンポジウムは、奈良県・吉野山を紹介し、では奈良に!吉野山に来て下さい!という観光誘致だけが目的ではありません。

もちろん、このシンポジウムを通して「桜を見に来ました!」「仏様・神様に会いに来ました!」「書を見に来ました!」という新たな目的を持って下さるきっかけとなり、実際に足を運んで下さる方が増えていくこと、これほどの有り難いことはありません。でも、そこで目的を終えてしまうのでなく、このシンポジウムには、それ以上の、それを超えたところでの、制作チームの皆さま、そして一緒に関わらせて頂いた私たちの深い想いと祈りが込められています。
その想いというものが、映像の1シーン、一言、一瞬、一人との出会い・・何か一つでも、皆さまの心に届く想いというものがありましたら、大変嬉しく幸せに思います。

心が求める、心が生きる、心が繋がる、心が動く場所として、誰もが持っている「生きてきた力」「生きる力」「生きていく力」というものを再確認してもらえるような、「大丈夫だよ」「あなたは充分素晴らしいんだから」‘‘everything gonna be all right!‘‘と、全ての人の自身の存在の奇跡と素晴らしさを見つめなおしてもらえるような・・日々の祈り「目に見えない」ことの大切さを感じてもらえる場所でありたい。

誰もが必ず、役割を与えられて、この世界に産まれてきました。

起こる全てに意味がある、この言葉は「きれいごとで済ます」ように響く時もあるかもしれません。
だって、そんな言葉で終わらせれるような経験でないことも、人生では起こります。
そんなこと言われても、辛いときは辛い、苦しくて悲しい時、涙が止まらない時だってある。
人を嫌いになったり、信じられなくなったり、手を合わせることに抵抗を感じたり、世の中の矛盾全てが憎く思ってしまうような時もある。

でも、生きていかなくてはいけない。
それが億劫に感じる時だってある。

感情を持つ人間だから、こう思うのは自然で当たり前だと思います。
感じない方が、逆に不自然で、人間らしくない。

そんな私自身も、人間だから、不完全だから、きれいごとで済ませれないことだらけでした。

でも、今回のシンポジウムの映像を撮って下さった保山さんの存在を通して、その映像に映されている保山さんの想いを通して、心を見つめ、未来へ進んでいく勇気を頂きました。
保山さんの存在が、私たち自身の、そしてまた櫻本坊にとっても「再生」への道を示して下さったように感じています。

それらの経験がなかったら、出会えなかった沢山の「生」と「動」があり、自分が勝手に定めた限界を超えていく必要があって、常に挑戦していく必要性に気付かされます。

目に見えることだけでは決めつけれない真実やミラクルは、日々、毎日、側で起きています。毎日、変化が起きています。

シンポジウムの冒頭で朗読された中で、心にふと流れ星のように降ってきた煌きがありました。

「日本には、外国の言葉では言い表せない言葉がある」
この1文に、たった数秒で言えるこの1文に、私たち日本人の感性や精神性を強く感じました。

日本人がよく言う「空気を読む」、主張・意見・YES/NOをはっきりすることが何よりも大切な文化の中で育った外国の方に、この表現を説明するのは大変難しいです。
言葉にしなくとも通じる空間がある、言葉以外の言語があり、それを受け止めれる器がある。

そこには何もないんです。
ただあるのは、例えば門や鳥居をくぐった時に感じる氣であったり、お経や祝詞の声であったり、お線香の香りであったり、ろうそくの光であったり、鳥の声、空の青さ、風の心地よさ、降ってくる木漏れ日・・・
そこに満ちる言葉ではない「何か」を感じ、その何かに意味を見つけ、それを支えに生きていく決意が出来る私たち日本人。

私たち日本人が、目に見えないものの大切さを知っている、何よりの証だと思いました。

何とかしたい。進まなくちゃ。前を向いて生きていかなきゃ。
こう想わせられる、心を突き動かされる出来事があるからこそ、この先に繋げていくことの大切さを深めることが出来るのだ、と痛感しました。

どんなことも、見方・観点・視点を少し変えて見ることができると、循環が始まり、滞っていた心を動かしていける、教えられる時期というのがあって、そして、幸せなことって実はいっぱい毎日ある!
「24時間以内に起きた幸せな出来事・嬉しかったことって?」―今すぐになかなか答えが出なくても、その答えをどんどん出していける、幸せを感じていける毎日に、誰もが皆していける。
四葉のクローバーだけを必死に探さずとも、見過ごしている沢山の三葉のクローバーこそが日々のかけがえのない幸せ。近すぎて気付かないことに感動していきたい。
そう感じさせられる時間と空間が、シンポジウムでは流れていたように私は感じました^^

何かを引き継いでいくこと。
世間的に見れば、それはどこの社会でも「継ぐ」か「継がない」かの2選択しかないように思われがちです。
そして、周りの人は何でもどうにでも言えます、一部だけを見て全体を語るような表現があまりにも多いのも、どこの社会においても「よくある」ことではないでしょうか。

でも何かを繋げ伝えていく方法は、その2選択だけでは決してありません。
どちらが正しくてどちらが間違っている、で判断することでも決してありません。
少なくとも私はそう思っています。

人間の都合だけでは決めれない、動かすことが出来ない、ならないこともあると思うからです。
繋げ方・関わり方に、それぞれの未来に「絶対」はなくて「こうであらなければならない」ことはないと思うからです。
目に見えない力が働き、自然と成るべき方向に私達人間は導かれていると信じているからです。

与えられた命を、与えられた所で、与えられた形で、自分らしく生きていく。
命をかけて、命を生きていく。それぞれの愛の形を、生きていく。
世界平和世界が平和で、心穏やかでありますように。
全ての命は、みな同じ。

全ての人が、必ず、すでに、愛する人に出会っているから。
幸せな空間と時間を皆様とシェア出来たこと、この幸せな想いに感謝致します。
リハーサルひとこまAnju

NAUSHIKA

本日は、当山オリジナルのお守りについてご紹介したいと思います!

当山の本堂の一番左には、パッと見は怖くて、でも近づくと親近感を覚える、そんな不思議な存在感を放つ、秋葉大権現さんがいらっしゃいます。

「天狗経」に説かれる日本48天狗のお一人で、八手の団扇を持たれています。
天狗さん実はこの天狗さん、影ながら、ファンの方が多く、多くの方に参拝して頂いています。

以前「新TV見仏記」という番組の撮影で、”みうら じゅん”さんと、”いとう せいこう”さんが来られ、その際も、こちらの天狗さんについて様々なトークを展開されていました。

もうお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが…秋葉大権現&日本48天狗、ということで、お2人は「AKB48だ!」と言われていたことが、なぜか一番印象に残っています…

さて、本題に入る前に、一点だけお伝えしたいことがあります。

以前参拝に来られた方で
「ネットで見たんですけど、誰でも天狗さんの鼻を触って良いって本当ですか?
多くの人に触られてるから、鼻だけツルツルしてる、って書いてあったんですけど」
と、質問を受けた事があったのですが、どのお姿に関しましても、直接触れて頂く事は基本ご遠慮頂いております。

お堂の中は聖域です。

しかし、悲しいことに、近年は、結界を超えて奥の奥まで入られたり、秘仏ご開帳法要の時に写真を撮ろうとされたり、お姿や仏具に触れたり(音を鳴らしたり)動かしたりする事態がまれにおこります。

こちらのブログからも、今後こういった事がないよう、ご理解頂けまよう、また我々も充分気をつけてまいりますので、ご協力お願い致します。

では!
本日はまず、今年4月に新しく出来ました、天狗さんの「除難招福」の祈願がこめられた羽(は)うちわ、の紹介から始めたいと思います!
羽うちわこちらは、お札として、玄関やお部屋の壁に貼って(または吊るす)頂いたり、手に持てるサイズですので、場の浄化や自分の周りの浄化のため実際に扇いで頂いたり、例えば入院中の方の枕元に置いて頂いたり…魔や闇を払い、良い風が吹きますよう想いをこめて、作らせて頂きました。(悪霊退散・当病平癒・身代り護り)
除難招福
てんこく当山の書禅家である伯舟が、書そして篆刻を担当し、天狗さんの前で祈願し、その朱の印が羽うちわに押されています。

天狗さんが実際に持たれている持物と同じ団扇を、お札として持って頂けます。
この団扇で、悪縁や因縁を吹き飛ばし、良縁そして幸せを招いて下さるよう、ご祈願の護摩を焚きました。

お札やお守りは、本当に守ってくれているのかな?
と疑問に思うこともあるかもしれませんが、絵馬や護摩木も含め、それも神仏とのご縁であり繋がることであり、神仏のお力をおかりして、祈りや想いを繋げて頂いてると思います。

護摩も、炎というのは神仏の力となり、(お線香も同じだと思います)天まで舞い上がる煙は、確実に届いていて、またその煙は隅々にまで満ち、心身・場の浄化をしてくれている。
そうイメージしながら、静かに手を合わせていると、不思議と心が清らかに安らかになってくる感じを受けます。
護摩が終わると、身体が軽くなった気がして、迷ったり悩んでいた事の答えが出たように感じるのは、きっと神仏と繋がることができたからかな〜と嬉しくなります。

神仏の声は聞こえるものではないし、お姿は目に見えるものではないけれど、案外、心の中でふと湧いてきた言葉や、誰かが言った言葉、思いがけず口から出た言葉、たまたま開いた本の中の目の前に現れた言葉なんかが、天からのメッセージであるのかもしれませんし、実際こういった経験をされている方は多いのではないでしょうか。

そして、ああなんて美しいんだろう、と心を動かされる感動の風景や、身を震わされる天災の風景、自然界の中のいかなる姿こそが、神仏の姿そのものなのかもしれません。
虫や植物の姿をされていて、影ながら見守ってくれていて、何か伝えに来てくれてるのかもしれませんね。まさに虫の知らせ。

キリスト教の教えの中に「足跡」という、個人的に思い入れのある詩があるのですが、それも、神様は目に見えないけれど、いつもすぐ側で支えて下さっているんだよ、と教えてくれています。

天狗さんの、その力強く迫力のある存在を感じて頂き、除難招福の羽うちわの力で、こちらのお札を持たれる方に、びゅんびゅんっと!良い風が吹きますよう、お祈り致します。

そして、力強さだけでなく、その羽うちわの風は、ふわっと降り立つべき場所に降ろしてくれる…そのような優しさも感じます。

風の吹く方向を信じて、身を任せて進んでいけるよう、時に力強く時に優しく、その団扇の力加減でサポートをして下さるのが、天狗さんの導きの一つかもしれません^^

なお、天狗さんのお守りは他にも2種類ございますので、当山にご参拝の際に、ぜひお手にとって頂き、天狗さんと繋がって下さいませ^^

6月も、沢山の幸せが満ちる月でありますように!
良い風を吹かせていきましょう!

今回は天狗さん編でした。
次回へつづく…!

by anju

 

想いを力に

4月29日 京都国際会館で、第64回 日本輸血・細胞治療学会総会が開催され、住職が講師として講演させて頂きました。

学会1
学会3
3年前から、日本赤十字社 近畿さい帯血バンク様とご縁があり、さい帯血採取病院(主に産婦人科)での、教育訓練の一環として、ドクター・看護師さんへ向けての講演をさせていただく中で、今回、学会総会での講演と繋げて頂きました。

学会4

*さい帯血移植は、母体と赤ちゃんをつなぐ、へその緒から採取される臍帯血を、血液ガンの患者さんへ点滴移植する治療です。
事前に妊婦さんとご家族の同意を得て、出産時に提供してもらいます。母体にも赤ちゃんにも、負担も痛みも影響もありません。
そして、臍帯血バンクで冷結保管され、移植を必要とする患者さんの要請が入った時、型が合う臍帯血が、病院へ冷凍boxに入れられて運ばれます。
身近で出産を控えた方、将来出産するさい、このブログを通しても「ああ〜さい帯血が何とかって言ってたな〜」と思い出して頂けると幸いです。

医療現場で、医療従事者に向けて、では何を話しているのか?

それは、主に仏教の観点から考える命(生と死)について・・・

ではなくて、一人の人間として、家族の物語、希望や夢が支える命の輝く時間への想い、「祈り」と「医学」の密接な繋がりについての想い、生命のバトンの繋がり、というものを中心に、講演会ではお話させて頂いております。

学会6
宇宙や 地球の規模の中でいうならば、1人1人の命の輝きというのは、ほんの小さな光かもしれません。

でも、全ての命は、この自然の中で繋がっていること-Circle of Life-を思うと、他人事ではありません。

全ての命は、魂は、愛や祈りや希望や 絆や慈悲や信じること、想いにより繋がっているということ。

こういった目に見えない想いこそ、大きな「治癒力」に繋がっていくのは、確かなことだと信じています。

でも、そんなの目に見えないやん?
目に見えないものを、どうやって信じればいいの?

目に見えないからといって、繋がっていないというわけではなくて。
目に見えないからといって、そこに何もないわけではなくて。

確かに、目に見えないことを信じることは、思っているよりも結構難しくて。

「空」「無」

例えば、空気は、目に見えてないだけで、「からっぽ」のようだけど、実は満ちていて。満たされていて。

「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばん大切なことは、目に見えない。」

星の王子さまも、そう私達に教えてくれています。

命に触れ、命を守り、命を繋いでいるのは、医療現場だけではなく、医療従事者だけでなく、私達皆も同じです。

さい帯血のように、お母さんや赤ちゃんも、名もなきヒーローであります。

「産まれてきたら、一緒にいっぱい遊ぼうね。沢山の場所に一緒に行こうね」

「元気に産まれてきてね。健康で育ってね。」

「産まれてきてくれて、ありがとう。あなたに会えて良かった。幸せだよ!」

お母さんと赤ちゃんを繋ぐ、生命のラインである、へその緒、そしてさい帯血には、そんな溢れんばかりの愛と祈りでいっぱいです。

その愛と祈りのラインは、必ず、確実に、移植を必要としている患者さんの生きる希望となり、生きる力となります。

人を救うのは、神や仏でもありますが、でも誰よりも人を救うのは、それもまた人であると思います。

四苦八苦の言葉の中には、愛別離苦という、1つの苦しみがあります。
愛する人と別れなければいけない、誰もが経験する苦しみの1つです。
でも、この言葉の基には『愛する人に出会っている』という素晴らしい喜びがあるということ。

人生の伴侶に出会い、新たな命に出会うということ。

今、この自分の命があるのも、両親に祖父母、そのまた曾祖父母…ご先祖様達の、その中の誰1人と欠けても、今の私達は存在していなくて。

これから出会う新しい命も、今の全てのご縁の中の、誰1人と欠けては、出会うことが出来ない、奇跡のかたまり。

夜寝る前の「おやすみ」
朝起きた時の「おはよう」

また明日も、その「おはよう」が聞けますように。

当たり前すぎる、この何気ない言葉も、相手があってこそ、命があってこそ…

櫻本坊は、護摩 ご祈祷の道場です。

櫻本坊の一番深く太い中心軸は、護摩であり、祈ることです。

修験道の行者さん達だけでなく、今既にご縁のある方、これからご縁のある全ての方へ、オープンであり、全ての方の為の祈る場であり、全ての方の為に護摩は焚かれます。

医学では治しきれない「心」を癒せれる場、医学では埋めきれない隙間を埋めれる場、そのような場でありたいと願います。

明日への出発をサポートできるような、背中をそっと押せるような、その人の心に寄り添っていけるような、生きる力を支えれるような…

そんな、心身のケアが出来る場として、静養、養生の場として、命が輝く場として、全てとの調和の中を生きていきたい、自己満足ではなく他者満足を生き方として生きていきたい、それが、当山に携わる私達の願いです。

護摩や言霊の「祈り」と共に、私達に出来る心身のケアの中に、食養医学や、植物療法、そして実際に専門機関で医学知識を現在取得中ですので、将来、何かしら、私達の想いや夢というものが繋がり、確実に形となり、受け入れられていくといいな、と願っています。

人生は長さではなく、生き方だから。

今夜の「おやすみ」
明日の朝の「おはよう」

また「おやすみ」
そして「おはよう」

かけがえのない人への、その言葉の先に、限りない愛が満ちていますように。
その愛こそが、今日を生き明日を生きる力となりますように。

『想いを力に』

by anju

得度式~当たり前を極める~

5月6日・7日、得度式がありました。

得度式1
アレナさん

当山では、年に2回(春と秋頃)行われており、毎回、様々な想いや誓いを胸に、様々な方々が得度を受けに来られます。
今年は、ドイツ人女性が、得度を受けられ、祈る想いにボーダーは存在しないことを、更に実感する日々です^^

得度、と辞書でひくと、よく目にするのは「出家するための儀式」と書かれています。
が、現代では「僧侶になるための儀式」の意味だけでなく、仏の心を敬い、心身の浄化を志し、自己認知を深め、人へ社会への自分らしい貢献の仕方を見出す(あくまでも私の表現の仕方です)、このように、1つの門を開く、という形で、どなたでも、得度を受けて頂けます。

ただ、その門を自らの手で開けて、その先に続く道を、「信」という軸を持って深めていきたい、という気持ちがあるかどうかの面接を、必ず受けて頂きます。

「受けろ、と言われたから来ました」
「~をするのに必要だから、しょうがなく受けに来ました」

といった気持ちで望まれる方には、申し訳ありませんが、受けて頂けません。
人に言われて来た、ではなく、自分の意志で来たかどうか。
嫌々来た、ではなく、心から望んで来たかどうか。

その、心の持ち方を特に意識しています。

また、得度を受けることはゴールではなく、始まりにすぎません。

「得度を受けたから全てが修了で、何をしてもいい」
「得度を受けたから、私は人と違って偉い」
「得度っていう、また新しい資格を取った」

そのような事を言われる方がいらっしゃる、と、よくお聞きすることがあるのですが、そういった感覚で得度を考えている人がいることに、少し悲しく感じます。
いろんな意味で、「信仰」を見直す時期がきているのではないのかな・・と感じます。

本当の意味で、この門を開けて歩んでおられる姿は、ありのままの自分を受け入れ、平等で、謙虚で、人を理解し愛することに努力されています。

以前の記事でも触れたことですが、修行とはいったい何のためにするものなのか。
道場に来たときだけ、人が大勢いて見られているときだけ、見えてるところだけ、そこでだけ。形だけ。恰好だけ。口だけ。
そしてその心持ちが、人への態度や、物の扱い方や、例えば掃除の仕方一つとっても、そのまま形になって表れてきます。

日常を丁寧に生きることこそ、毎日の生活を大切に生きることこそ、何よりも大切な修行ではないでしょうか?

自分のありのままを受け入れる勇気を持つこと。
目の前にいる家族を愛し、仲間や友人を尊重し、人それぞれの違いを認めること。
自分と意見や価値観が違う人を否定し排除するのではなく、自分より弱者と決めつけて人を馬鹿にするのではなく、生きている間に、どれだけ自己認知を深めれ、人を理解し愛せるか。
見返りを求めない、社会・人への貢献ができるか。
人の幸せを素直に喜べ、それが自分の幸せとして感じれるか。

滝を浴びる、護摩をたく、お経を唱える、山に入る、荒行だけが、決して修行ではありません。

人への感謝の気持ちや、自然界で生かされていることへの感謝。
日常生活の中の当たり前ができなくて、その当たり前をないがしろにしてしまっていては、例えば荒行だけしても、根本的なところでの軸が立たないように思います。

スポーツでも学業でも、基礎が一番大事!基本ができなくては、何もできない!
まさにその通りやな~と私も常日頃、できていないことだらけで、反省ばかりですが、この考え方をいつも頭に置き、初心に戻り、まずは普段の生活を見直すよう心掛けています。

得度講習お昼
得度講習

得度受戒会を迎える前に、心得や作法を含む勉強会があります。

そして、座学だけでなく、実際に体を動かしての作務の時間もあります。

作務は、何も特別なことをするのではなく、境内の草ひきや、お堂周りの掃除、トイレ・お風呂掃除など、普段家でする基本的な作務と何も変わりません。
掃除は、自分の身の回りだけでなくて、例えばそこに次訪れる人の気持ちを心地よくすることができる、これも1つの人への貢献だと思います。

得度作務1
得度作務2
得度作務3

たかが掃除、されど掃除。

掃除するときの気持ちは、そのまま掃除の仕方や、仕上がりに形として出てきますよね。
道場での作務ってもっと特別なことをするのかと思ってた!と感じるかもしれませんが、大切なのは、日常生活に根付く、最も根本的で「当たり前」なことに、今一度気づいてもらうこと。
(よくよく考えると、道場での日々というのは、何も特別なことはなく、同じように、日常の当たり前を生きています)

その作業をしているときに、どんな感情が心の中にあって、どのような気持ちでしていて、何を思い、誰を思い、どうその時間を過ごしているのかを、自身で気づき知ること。
そして、得度を終えて、家に帰ったとき、どうその体感を生かしていけるか、生活の中に根付かさせていけるか。
「当たり前」を「当たり前」にできていけるか。

それが大切だと考えています。
このような毎日の「当たり前」を「当たり前」にする誰もが、既に修行者!ではないでしょうか^^

また、同じ時間を共に過ごす人達とのハーモニーを学ぶこと。

もちろん、私たちは人間だから。
感情があるから。
誰だって、苦手だと感じる人がいて当たり前だし、体調や気分によっても人への接し方に変化が出てしまうのも当たり前。

だって、人間だから。
完璧な人なんて存在しないから。

そんな一瞬一瞬を流れる感情の波や、氣の流れの中で、その場で共に過ごす人たちと、いかに調和を保てるよう心を向けれるか。

例えば、一人でもなんとなく機嫌が悪かったり、なんとなくピリピリしてる感じがあったり、それが、知らずのうちに、目に見える形・目に見えない形で、態度や言葉遣いや目つきや波動として出ると、それだけで場の調和は乱れてしまいます。

その感情を持つことは、全然悪いことではなくて、むしろ当たり前なことですが、可能な限りで、調和を保てるように、自身に、そして相手に心を向けれると、きっと自分たちを取り囲む周りの環境は平和で幸せで笑顔に包まれ、それが世界平和に繋がっていくと思います。

奥駆修行でもそうですが、30人前後で5日間、山岳修行を共にすることは、自然の中に息づく生命や神仏を感じること、自身の内面と対話すること、祈ること、そして人とのハーモニーを学ぶ場でもあります。
歩くスピードや、歩幅の違い、年齢も職業も生きてきたバックグラウンドも、何もかも違う人たちが集まって、共に歩くのだから、やはり最初は、その全体の歩調や歩幅に慣れるまで大変ではないのかな?と思います。
皆がそれぞれ、自分のことばかり考えていたら、きっと全体のハーモニーは保てなくなるでしょう。
怪我をしたり、文句や愚痴や人のせい、という負の感情が心を支配してしまうでしょう。
でも、相手のことを想いあいながら、支えあいながら、共に進む道には、そこには調和という、その道を示してくれる光となるのではないでしょうか。

そして、その体感こそが、人生を、社会を生きていくなかで、人と共に生きることの意味を示してくれるのではないのかな、と個人的にはそう考えています^^

全ては、相手があってこそ。
そして、生命があってこそ。

一人で生きている人はいなくて・・
「他人事」の命は存在しなくて・・
全ては、人は、みんな繋がっているから。

得度作法

そのような「当たり前」を見直し、ハーモニーを意識し、何かしら、この2日間が、皆さんにとっての「きっかけ」や「気づき」となったことを、また、なっていくことを、願ってやみません。

自ら開かれた門を自分らしく歩んでいかれるみなさんへ。
得度式を終え、あらためてお伝えしたい言葉は、

「お誕生日、おめでとうございます!」
です!

戒名という新たな名前に、自分らしく、魂を吹き込んでいかれますよう、自分らしく、生命を生きていかれますよう、心からお祈り申し上げます。

「産まれてきてくれて、ありがとう」
命の誕生の瞬間を喜ぶのは、命の全うの瞬間を悲しむのは、親や家族だけではなくて。
そこには、必ず、繋がっているたくさんの人たちの命や人生や想いがあって。

与えられた命を、与えられた所で、与えられた形で、自分らしく生きること。
それも、一つの愛の形であり、そして私たちにできる、最大の貢献であり恩返しであるのではないかな・・^^

毎日が、誰かの誕生日。
5月7日 得度式、皆さんの誕生日を、共にお祝いできたこと、幸せに思います。

全ての繋がるご縁に感謝です。
ありがとうございます。

by anju

ひらけごま

5月3日 午前3時
大峰山の戸開け式が行われました。
まだまだ暗闇と寒さの残る静寂な聖地での戸開け式の後の、朝日に染まる空の美しさと澄んだ空気は、住職から送られてきた写真からも伝わってきました。

ohminesunrise
山上
9月23日の戸閉め式まで、5か月近く、大峰山は修行者を受け入れる季節がきました。
7月には奥駆修行もあり、真夜中から早朝にかけて、吉野山中に修行者の法螺貝の音、錫杖の音、リュックに付けられた鈴音、そしてお経を唱える声が鳴り響きます。
(午前2時半に吉野を出発し大峯山をめがけるため)

のださん

きたさん
大峰山上の櫻本坊 参籠所でも、縁の下の力持ちの方達がいて下さっています。
修行者の皆さんを迎えるため、到着された方の疲れを癒せるように、出発する方の道中の安全を祈りながら、山上 櫻本坊の守をして下さっています。
また、戸開け式をめがけて来られる方のためにも、4月末から山上に登り、準備をして下さっていました。
そして、行者さんの中にも、ご奉仕で、その準備のために同じく早くから山上に行って下さり、参籠所の工事や掃除や、さまざまなサポートをして下さっていました。

火もり
サポート
台所手伝い

どのような行事・法要・神事でもそうですが、支えて下さる方々がいて下さるから、全ては実現でき、祈りの「現場」を守ることができること。
櫻本坊1つをとってもそうです、例えば僧侶1人で出来ることは限られています。そこに携わる人間だけで出来ることはほんの僅かです。
多くは、やはり支えて下さる方達がいて、祈る想いを分かち合える方達が来て下さるから、共に手を合わせれる空間があるから。
神仏と、皆一人一人の祈りと想いが1つになってこそ、それこそ「ひらけごま」は本当に道を示してくれる。

こういった方々の存在を通して気づかされ、本当に毎回同じ文章の繰り返しになりますが(何度でも書いていきますが^^)感謝の気持ちで溢れてきます。

山
山に入ることは、自然と一体になり、自分と向き合う貴重な時間です。

自分と向き合うと、自然と相手とも向き合い、人を想う心に気づかされるのではないでしょうか。
一歩一歩が、祈りの道であり、その一歩一歩を踏みしめる道も、また生命の道でもあります。
地球・自然は循環し続け、その調和の中に生かされている私たち。
全ての命の存在の平和や愛や幸せを願う道。

数ある聖地と呼ばれる場所に流れる Circle of Lifeに教えられる事はいっぱいです。

私自身、去年の10月、十津川村から、釈迦ヶ岳~楊枝宿の山道を歩きました。
私にとって、人生2度目の本格的な山でした。
(1回目は弥山でした)

釈迦ヶ岳

山に入って、ひたすら歩いたその12時間は、人生を歩む自分の立ち位置と重なり、人生を教えられたようでした。

転ばないように下ばっかみて歩いてると、道の全体は見えません。
でも、そこには動物の足跡があって、植物の健気な姿に勇気づけられます。

周りの景色に気をとられて歩いてると、自分の足もとを忘れがちになります。
でも、雄大な風景に抱かれ見守られている心地よさに、ちっぽけな悩みや不安は消えていきます。

水たまりがあったり、分かれ道があったり。
避けるように歩いても、違うところでは避けられなかったり、右の道を選んだけど、結局は左の道を選んでいても、最終的には同じ場所にでたり。

こんな山道に、それでも先人達が歩いてきた道筋は、失われずに続いているのです。
その道筋だけ、植物は咲かずに、まるで人間のために、迷わないように、道を示してくれているのです。
そんな山の、私たちに向けられる優しさを感じ、その道筋を辿れる喜びを感じました。

例えばご先祖様や、歴史を切り開いてきた偉人達が歩いた足跡が、今を生きる私たちの前を向いて生きるヒントや希望になったり。
いや、ひかれたレールの上を歩くのは嫌だ、道なき道を行くんだ、自分で道を切り開いていくんだ、その熱意や勇気や原動力も、隣で同じように道を繋げ歩く仲間やライバルの存在のおかげだったり。

道筋
道筋2
山を歩くことは、まるで人生そのもののようでした。

でも(季節が季節でしたので)他に誰も歩いていなくて、この地球上に自分たちだけしかいないように感じて、風の音が話声のように聞こえてきたり。
霧がでてきて周りが見えなくなって、日が沈む直前の焦りや、暗闇の中を延々と歩く恐怖。
野生の鹿の群れに遭遇して、ハラハラしながら横切ったとき、鹿達は私たちが見えなくなるまで、じっとこちらを見つめていたこと。

夕暮れ

霧山

神仏が宿る山は、偉大であり、そして孤独でした。
想念の世界って、こんな場所なのかな?
そう思わせられた経験でした。

自然の優しさと、自然の怖さに気づかされた経験でした。

山を人生のように例える意味が、少し分かった気がしました。
入口は違っても、その登る道が別々でも、登るスピードや登り方が違っても、目指す山頂は同じ。
試練の中にも、喜びの感動の中にも、全ての中に求める答えや真実があって。

そこには、必ず自分たちを見守ってくれている存在があって。

それが人生っていうものじゃないのかな。

 

大峰山が今年も開いて、そんな去年の事を思い出してた今日。

修験は、仏教・儒教・密教・道教・景教・陰陽道・神道・・・などが融合した「道」です。
山に入ること、滝を浴びること、護摩を焚くこと・・
自然に全てを委ね、まず祈ることから始まる「道」が、そこにはあります。

マザーテレサの言葉のように、世界平和のために出来ることは、まずは家に帰り家族を愛することから。
自分を愛すること、それだけ聞くと・言うと、自分本位で勝手な人間だ、と聞き取られてしまいがちですが、人を幸せにするには、自分が幸せでないと、自分が満たされていないと、人の心を幸せで笑顔で満たすことはできません。
まずは自分という存在を愛し、そして家族を愛す。家族の幸せが、それが自分の幸せだから。

その先に、自分や家族の幸せだけでなく、人の幸せを願い、人の幸せに繋げていくのが、その「道」の1つの目的ではないでしょうか。
人の幸せが、それが自分の幸せだから。

お釈迦様の歩いた跡には、花が咲いたといわれます。
今、この瞬間を生きる私たちの歩く道が、沢山の幸せで満ちていますように。
今、この瞬間を生きる私たちの歩く道が、誰かのための道しるべとなっていきますように。

大峰の山々を歩かれる方達の、全ての命の幸せと、道中安全をお祈りしています。

by anju

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