GAGA | ブログ@櫻本坊

やまと ことのは つづり

マグネット

8日24日は、地蔵尊大祭があり、ご先祖様や水子、大切な方々のお供養をさせて頂く日でした。

実は少し前まで、なぜ日本では、亡くなった人への行事や法事などが、こんなに長い年月をかけて沢山あるのかな?と疑問に思っていた時期がありました。
仏壇にお供えをし、お墓を掃除したり、お盆参りがあり、家族が集まり、またこういった法要行事が盛んに各地で行われ、いつもより少しばかり、故人を意識する時期。

お盆という時期に示されているように、あっちの‘‘目に見えない世界‘‘と、こっちの‘‘目に見える世界‘‘、この2つの世界の壁が薄くなって、大切な故人の方達との距離が近くなる?
そのような日本独特の、故人との魂の繋がりを大切にする考え方に、あらためて興味深いというか、当然に営なまれ続けている行事1つ1つの意味を、きちんと理解したいと思うようになりました。

もちろん、時代の変動の中で、ライフスタイルや考え方、価値観など、日本のこういった行事も、形が変わりつつあります。
それはそれで、変わらぬ真実というものは繋げ、そして時代に応じた形に変わるべき所は、変わっていくことを受け入れていくだけのこと。
何より大切なのは、心がどこにあるか、だと思うからです。

お盆や、こういった供養という法要などは、暗くしんみりなイメージがつきものですが、命を祝福する時間でもあると思うようになりました。
今自分たちがここに生かされている命に感謝する、自分の命を繋げてくれた、ご先祖様の命と人生、その人たちが出会った数えきれない人たちとのご縁と奇跡に感謝する。
その誰一人と欠けても、今の自分は存在していない。自分のご先祖様達だけでない、全ての先人の命も繋がっているから。
だから、お盆という時期は、あらためて、命の繋がりに感謝し、命を祝福する時間なのかな、と思います。

様々な理由での死に直面し、故人を想うことが辛かったり、穏やかに向き合えないことも当然ありますが、自分の命という、与えられている時間を生き抜くことだけは、それだけは投げ出したくない。
何であの人が死んでしまって、私は生かされたのか、そんな風に生きることに罪悪感を感じてしまう時もあるかもしれません。
でも、生かされたこの命、苦しい時は苦しい中を苦しみながらでいい、何が何でも乗り越えていかなきゃ、その人を悲せませないように生きていかなきゃ。
生きているからこそ、肉体があるからこそ、可能なことは山ほどあって、実現できることがある。

「今、ここで、生きていることが、ただ素晴らしくて、命がとてつもなく、ただ愛おしい」

そんな風に個人的には、地蔵尊大祭の時期は、生きていく決意、そして生きている幸せを、再確認させてくれる季節でもあります。

さて、こちらのブログでお馴染み、縁の下の力持ちの皆さん!地蔵尊大祭編です^^
らぶやで2
らぶやで1
節分と地蔵尊大祭のお塔婆書きを、15年以上、毎年泊まり込みでご奉仕して下さっています、元警察官の皆さん。
現役時代からのご縁でいうと、もうそれこそ30年以上と伺っています!
こんな風に、ご縁の始まりは十人十色で、関わり方も十人十色。
行者さんではない方々にも、様々な場面で支えて頂いており、そのお気持ちがとても嬉しく、感謝感謝です。

様々なバックグラウンドを「らしく」生きてこられた方々とのご縁が溢れる当山にも、皆さん1人1人に物語があり、それをシェアし、お互いを向上していける空間があります。

人は人により学び、教えられ、愛を知り、別れを知り、喜びも苦悩も何もかも、多くを人から経験する。
憧れの師に出会い理想を想像し、反面教師を通して自分を見、誰もが人生を誰かとシェアし、繋がってない人なんか一人も存在しない。
人との関わりの中で「自分らしさ」を磨き、そしてその「個性」「違い」を認め合い尊重し合っていく。
生き方も、繋ぎ方も、関わり方も、それぞれ違って当たり前、違って、それがいい。

自分の命が祝福されていると同じに、あの人の、この人の、全ての相手の命も祝福されている。
皆さんにとっても、命の祝福を感じるお盆となりましたよう、お祈りいたします。

Anju

重要なお知らせ

***重要なお知らせ***
-Important notice for Ganesha service coming up in October-

毎年10月1日に行われています、吉野聖天大祭についての、重要なお知らせです。
本年度より、法要の内容、及び時刻が変更となります。

<10月1日>
午後1時: 秘仏・十一面観音 ご開帳法要
午後2時: 大護摩法要

*****夜中の浴油秘法供はございません
ご注意下さい*****

文面でのお知らせも順次発送しておりますが、毎年ご参拝の方にお伝え頂ければ幸いです。
詳しくは随時、ホームページ&facebookでの更新をご覧頂くか、又はお電話でお問い合わせ下さい

Ganesha service on 1st October ***
13:00 the service of Juichimen Kannon (Eleven-faced Kannon) starts
14:00 homa ceremony starts

Please be informed that midnight service of Ganesha’s bath oil won’t be held from this year*****

Anju

慣れ だれ 崩れ 去れ

「慣れ だれ 崩れ 去れ」by劇団四季

オリンピックが始まり、更に熱い日々です🌞

4年間…それ以上の日々を、ストイックに鍛練されてこられたアスリートの方々の姿と揺るぎない精神力に、胸をうたれます。
与えられた試練に全身全霊で挑み、自分を信じ相手を信じ、目標を見失わずに、日々向き合い、 努力し、生きること。

信じること。続けること。積み重ねること。

1日そこらでは決して得れない、その「心力」「軸力」そして「生きる力」

この力の源を知りたくて、劇団四季さんの、かの有名な稽古場の言葉が重なりました。

「慣れ だれ 崩れ 去れ」

心はどこにあり、心はどこに向いているのか。

それは、衣装や持ち物や言葉の飾りでごまかせるものではないと思います。

慣れ、だれ、崩れ始めると、その心持ちは、全て言動や、服の着方1つ、物の扱い方1つ、表情、考え方、生き方、そして歩むその道にまで、目に見える形で表れてきます。

そしてその影響は周りの環境への伝染となってしまい、それが当たり前になってしまう、なんていう連鎖になりかねないです。

自身も含め、初心を忘れず、広めるなら良い伝染を繋げていけるよう、心の軸をブレさせないことの大切さを、再確認させてもらえる言葉だな、と感じました。

真心、の積み重ね。
その心を相手に確実に繋げていけるだけの「心力」「軸力」「生きる力」の「発信力」の強化

日々いろーんな事があるのが人生ですが、今ここで生きている目的、生かされている役割と全力で向き合い、限界を定めず、常に前に進みたいです。

皆さんも、ホットでパッショネイトな日曜日を🌞🎌

epidemic? nah nah lets make it pandemic:D
I mean, of course, in a good way👍
Have fabulous Sunday!

Anju

この道を行く意味を。

こちらのブログを開設するに至って、たくさん伝えていきたい想いというのがありました。
その想いを、少しずつお伝えしていけたらいいなと、思います。

まず、こちらのブログを担当しているのは、僧侶や神主や牧師のような立場にいるものでもなく、行者でもありません。
神仏習合の道場という、ちょっと日常より濃いめの祈りの環境にいる時間が長い中で、日々感じること、今までなかなか表に出なかった、そして出せなかった想いを、いち人間が、その目線と視点から、率直に綴っています。

ですので、ブログ、また主なフェイスブック投稿の内容についての窓口は、私Anjuまでお願い致します!

祈りは、日常の中に根付き、誰もが毎日祈りの中で生活していると思います。

「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「あの人元気にしてるかな?」
「お誕生日おめでとう!」
「体調、早く治してね」
「すっごく心配したんだよ」
「また会いたい!また会おうね!」
「おかえり、無事で良かった!」
「元気に健康で産まれてきてね」
「おはよう」「おやすみ」

「ありがとう」「ごめんね」「愛してる」「あなたがいてくれて本当に良かった」

日々何気なく発している言葉や、人との会話、時たま叱られる言葉の中には、その人を想う祈りで満ちています。
山、木、石…自然の中に神仏の存在を感じ、自然に向かって手を合わせる精神を持つ日本人のスピリット、日本語の言い回しや漢字に込められた深い意味、季節に沿った伝統や風習、日本古来食の身土不二の極意、全てには、神仏と自然と人の繋がりと共存を感じることができます。

まさに「一如」

<良道(よしみち)書>

それは、修行にも言えることだと思います。

性別、職業、出身地など、全てを脱ぎ捨てると、そこに残るのは「心」です。
その心で、神仏 自然 人と向き合い繋がっていくこと。

本当の修行とは、普段の日常生活を丁寧に生き、世のため人のために、何が出来るのか考え行動し、自分を家族を周りの人達を大事にし、自然や地域や社会の中で、毎日を生きること。
与えられた命を、命をかけて生きること。

日常をどう生きるかこそが、修行の最もな基本であるのではないかと。
だから何も特別な荒行をすることだけが、えらいのでは決してありません。

もちろん、そこには例えば「修験」と名のつく、言えば一筋の道があります。
そこには例えば、その道を行く人が身につける基本的な作法や、着衣や、持ち物があります。

でも何が一番大切か。
それは、例えば資格があることではなく、例えば衣装を着ていることではなく、例えば護摩を作法通りたけることではなく、例えばお経を1から10まで唱えれることでは本来なくて…

そこに「心」があるかどうかです。

何のために誰のために「祈る」のか。

修験という道の素晴らしいな、と感じることの1つとして、それは理論の前にまず体感があり、例えば自然に入りそこで実際体感し腑に落ちたことは、心身に確実に刻まれていくこと。

自然が教えてくれるcircle of lifeと陰陽そのもの、神仏 自然 人との一体感、自分の内面を見つめ+−のバランスを整え満たすことで、人の幸せを想う力が満ちていくこと。

別の言い方をすれば、本来、身1つで歩める道であると思うのです。
何も無くても、そこに心があれば、心さえあれば、祈りの道は必ず繋がっている。
お経を知らなくても(そんな私はお経は全く覚えていません)、心の底からの想いを神仏に伝えること、相手に伝えること、それが既に最強の祈りの言葉だと思います。

もっと言うと、本来…修験は行者さんだけの道ではなく、全ての人の生活に溢れる祈りの道であると思います。ただ「修験」なんていうカッコイイ名がついてしまっているだけ。

手段として、そこには例えばそれぞれ意味のある作法や着衣や道具があると思うのですが、それはほんの、ほんの一部のこと。
一番大切な、なぜこの道を行くのか、なぜ祈るのかという目的を忘れないことだと切実に感じます。

「目的」と「手段」を逆転させてはいけない、と。

神仏への限界のない真心、自然への敬い、一緒にこの地球で生きる全ての人との縁への感謝。

「今、ここで生かされている」ことの奇跡と事実を噛み締めること。

時代とともに、形や方法が変わることもある、時代が流れても、変わらない真実がある。

当山も、時代とともに、そして変えていきたいと願う所、変わるべき所は、1日1mmのスピードかもしれませんが、変わってきている真っ最中です。
でも、例えば1年後の目に見えて進んでいてほしい36.5cm、そのために、私達自身も意識の変革、見つめ直す必要のある多くの課題を1つずつクリアーにしていっている過程にあります。
だからこそ、変わらず流れる祈りの心というものは、今まで以上にキチンと、伝え繋げていきたい、そしてその想いを、こちらのブログからも、皆さんとシェアしていきたいと心から願っています。

何の為にこの道に入ったのか?
何かしら、必ず想いがあって、求める道があって、ご縁があって、この道を皆一緒に歩んでいるのです。

道の始まりが苦しみであっても、喜びであっても、今の道が幸せに満ちた道であってほしい。
人のため、世のための幸せを願える道であってほしい。
そこには自分、人、自然、そして神仏への愛が、根本にあってほしい。

数えきれないほどの方達とのご縁で繋がれてきた、深い深い想いと祈りで繋がれてきた、この祈りの道を、今一度初心に戻り、一緒に築いていきたいです。

もう一度。

なぜ、この道を行くのですか?

心、はどこにありますか?

この祈りの道を、もっともっと信心の心で満たしていきたい、一人でも多くの人の幸せに繋げていきたい、ただただその一心です。

Anju

祈りとは

Takigyo-Waterfall meditation-

言葉や国境や人種を越えて、心と心で繋がる想いがあること、繋がる祈りがあること。

性別・職業・出身地…色んなことを脱ぎ捨てると、そこに残るのは心です。

その心で、神仏・自然・人間と真信に繋がっていきたい。向き合っていきたい。

何故修行をするのですか?
何のため、誰のために祈るのですか?
何故、この修験という道に入ったのですか?

祈りについて、想いについて、修験の在り方について、今大きな転機の期がきています。初心に戻る必要があるのではないでしょうか。

なぜ錫杖を振るのか、なぜお経を唱えるのか、なぜ山に入るのか、なぜ護摩をたくのか。

なぜ、この道を行くのか。
心、はどこにあるのか。

皆さんにとって
祈り、とは何ですか?

そこに「心」はありますか?

Anju