装束のひふみ
今年の吉野聖天大祭も、結願させて頂きました。日程変更にも関わらず、出仕して下さいました皆様、ご参列して下さった皆様、深く感謝申し上げます。
降ってくるかのような満天の星空とロウソクの灯の中での夜中の秘法供法要。
聖天堂の前で参列している間、堂内から聞こえてくる厳かな祈りの言霊たち。
清らかな鈴が鳴らされるのを聞くと
「あ、聖天神が来て下さるんだな」
「あ、お帰りになられるんだな」
と、胸が熱くなり、手を合わせる意味を深く感じる瞬間でもあります。
目で見える法要でないため、中で何が起こっているのかは一切見えませんが、神仏の「気配」を強く感じれるのが、また我々日本人の精神性でもあります。
「信じる」ことと同様「気配を感じる」そして形なきものを観る心の目が、私たち人間には本来備わっています。
晴天に恵まれた、十一面観世音菩薩の祭礼。
1年に1度の大祭で、この日住職が着る衣帯は、神仏に最高の敬意を表すものです。
装束を着る意味。
人に、それぞれの役割を示すためにも大切なことでもありますが、本来、僧侶 神職 牧師 行者…その装束は、神仏への敬意であり、中取持(なかとりもち)としての正装であります。
人は時に、人に見せるための衣装と、傲慢な意識に支配されますが、「装束を着る意味」を今一度見直し、着たからには、心を向ける方向を間違ってはいけません。
襟を正す、つまり着衣を整えることで、心の軸を整える。中取持は、背中でこそ、人々を導いていけるものです。
心一願となって、厳かで心温まる祭礼を執り行えましたこと、喜びに満ちた祈りが、ご参列下さった皆様に満ちていきますことを、心よりお祈り申し上げます✨
Anju